シャイアさん、ご用心! その2


「ふあー」
 楽しげな声を出して、メイド服姿のシャイアが両手を胸の前で合わせる。
 目の前には、今しがたオーブンから出してきたばかりのほかほかなアップルパイ。
 テーブルの対面に座っている俺の鼻にも、ほのかに甘酸っぱい香りが漂ってくる。
 皿の上で湯気を立てて、いかにも美味そうだ。
「いっただっきまーす」
 シャイアはフォークを手に、さくさくの生地を切り分けて、一片を口に運んだ。
 途端に拡がる満面の笑顔。
「あー、おいしいですねえー」
「なあシャイア君」
「はひなんでしょほー」
 まず、口をむぐむぐしながら喋るのは止めたまえ。
「俺の分はどうしたのかな」
「おいしいですねえー」
 聞いちゃあいねえ。
 シャイアはごっくんと飲み下すとさらにもう一片を口に運ぶ。
 すっかり悦に入ったシャイア君、顔の回りにハートマークがふわふわしている。
 俺は渋い煎茶を啜りながらそんな様子を眺めていた。
 むーとか言いながら頬に手をあて、首を傾ける。
 あはは幸せそうなシャイアくんは可愛いなあ俺腹ぺこだっつうの。
 むふーむふーと鼻息荒くくねくねしているシャイアを尻目に、俺は皿のアップルパイに手を伸ばす。
 するとそろそろと伸びた俺の手を目がけ、即座に平手が飛んできてぺしんと引っぱたかれ、ダメですよご主人様いやあてへへー。
 かと思いきや、まるっきり予備動作もなくフォークがぶんと振り下ろされた。
 一瞬の煌めきと金属の咆吼。
 間一髪で俺は避ける。恐ろしいほどの殺気。奴め本気だ。
 俺は前髪をかき上げ、シャイアの顔を上目遣いに睨む。
「おいしいですねえー」
 三回目だぞそれ。
 と、俺とシャイアがほのぼのとした午後を過ごしていると、ぴんぽんとチャイムの音。
「シャイア、お客様だ」
「今、手が離せないんです」
 そうかそうだな。
 俺は突っ込む前に呆れ果てて、やれやれと玄関前に向かった。
「ああいー」
「ちいっすあんちゃん、ゴムひも買ってくんなあ」
 と、ハスキーな女の声が聞こえてくる。俺は鍵を閉めた。ばちん。
 ばちん。即座に鍵が開いた。しまった奴には合い鍵を預けっぱなしだったかと顔を歪ませる。
「あらよ全く何をするかね」
 程なく玄関のドアが開き、真紅の派手なスーツを纏った長身の女が現れる。
 そのスーツは妙に身体のラインを強調するようにフィットしており、ちらりと覗く胸元がいかにも悩ましい。
 俺は、不似合いに大きな丸眼鏡を掛けた女の顔を覗き込み、厳かに告げた。
「押し売りはお断りですよ」
「ボケ倒すな!」
 べしーとツッコミが来た。痛えよお嬢さん。
「ひっさしぶりだね楠井ー。どお、元気ー?」
「今あんたにはたかれたんで怪我人です」
「ひへへへそれはまあお大事に」
 べしーと再びツッコミを入れるこいつは、音芽。本名を有葉音芽と言う。
 音芽、それは、俺の恋人、だった、女。
 いっつもいっつも思うんだが、別れたというのに、何でこいつはけろりとした顔で俺の家にやってくるんだ。
「会いたかったよお楠井」
「俺は会いたくも何ともなかった」
「おやつれないこと」
 す、と音芽の指が俺の顎に触れる。
 そのまま奴の唇が近づいてきて、俺の視界は音芽の顔でいっぱいになった。
 真っ赤な音芽の唇。長い黒髪がふわりと揺れ、香水の匂いが鼻梁を刺激する。
「な、こら、やめろ」
「やめたげない」
 挑戦的な瞳。尚も音芽の顔は近づいてくる。妙に自分の心臓が高鳴っているのが分かる。
 しかし、ここは居間から丸見えなんだ、こんな所をシャイアに見られたら。
 俺は顔を背けて、シャイアの方を見る。
 シャイアは、フォークを持つ手を止め、心ここにあらずと言った風情で、宙を見据えている。
 げっ。しまった見られたか?
 俺が歯ぎしりをすると、シャイアの小さな口がわなわなと開く。
「やっぱり、おいしいですねえー」
 四回目だぞ、それ。





 と言うわけで。
 何とか音芽をかわし、俺は居間に戻ってきた。
 所がさも当然の如く、音芽も付いてきている。
「なんでいるんだお前」
「いいじゃないかね別に。で、この子が」
 音芽の視線がちらりとシャイアを捉える。シャイアは、まるで何も気にしていないかのように、アップルパイをはぐはぐ貪っている。
 俺と音芽は、お互い無言で、シャイアちゃんおやつたいむを見守った。
 やがて最後の一切れがシャイアの口の中に消える。
「けふー、ごちそうさまでしたー」
「あのさ、ちょいと」
「はややややややあああっ!?」
 音芽が声を掛けると、シャイアさん、ずぞーと後ろに下がって、壁に頭をぶっつけた。
「いいいいいいいいいつのまにお客様が! は! に、にににに忍者の方」
 どんな忍者だ。
「いやま美味しそうに食べてたから邪魔するのも悪いかと思ったんだけどさ」
「あああごめんなさいっ、おおおお茶をお出ししなくちゃえっとえっと少々お待ち下さいっ」
「いやいや箒に手ぬぐいを乗せて廊下においとけ」
「ははははいっ、箒箒ほうきはどこでしょうっ」
 本気にされても。
「やー、お茶は良いからさ。あんたがシャイアちゃんかね」
 テーブルの上に頬杖を付いて、音芽はシャイアの身体をじっくりと眺める。
 さながら蛇に射竦められた蛙のように、シャイアは落ち着かなさそうにもぞもぞすると、ぺたんとその場に座り込んだ。
「は、はい、わたし、シャイア・メイデンですが、あのあの、お客様はどうして、えと、どなた様で」
「まままあたしの事はいーからいーから。で、シャイアちゃん、単刀直入に聞くけど」
 俺はすっかり冷えたお茶を口にする。
「あんた、楠井の、彼女?」
 ぶほー。
 俺は音芽の顔にお茶をぶちまけようと思ったんですけど即座に首を捻られて畳の上で痛みと呼吸困難に苦しむ羽目になったんです。
「がほがほげほおっ! き、器官に入った! ぶふっ、がっ、げはっ!」
「ややややーぁぁですねえわたしそんなんじゃないですよお」
「おやおや照れちゃってかーわいい」
 お前ら俺のこと無視カヨ!
 シャイアは首をぶんぶんと振る。顔が真っ赤だ。やっぱし恥ずかしいのかな。
 いや本気で嫌がっていたら俺死ぬほどショック。
 ってゆかシャイアさんなんでそんな異常なまでに首を振りますか。なんでそんなに顔をしかめますか。や、あの、まさか。
 おっかないのでこれ以上シャイアさんの顔を観察するのは止めました。
 俺は何とか息を吹き返し、席に戻る。ああ首が痛え。
 音芽は俺など一瞥もせず、目を細め、シャイアに向けて不敵な笑みを浮かべる。
「そか、シャイアちゃんは楠井の彼女じゃないんだ」
「ちちち違いますってば。なんでわたしがこんなのと」
 びしーと俺を指さすシャイア。
「そだよねえこんなのだけどさ」
 びしーと俺を指さす音芽。
 こんなのでスミマセン。
 俺が何だか萎縮していると、音芽は不思議そうにシャイアを見て、
「あ、そういやさあ、なんだねその服は」
「へ?」
 シャイアは不思議そうに自分の服の袖をつまむ。
「これですか? メイド服です」
「いや分かってるけど。なんでそんなの着てるのさ」
「あー」
 シャイアはぽかーんと口を開ける。そうして困り顔を作って首を傾けると、
「なんででしょおねえー?」
「いやお前俺のメイドだろ一応!」
「あー」
 またもシャイアはぽかーん。
「そうでしたっけねえー?」
 お前すっかり忘れてたろう。
「はあんメイド。へえ。んんん? んー」
 音芽は訝しげに眼鏡を掛け直す。なんだよー、まだなにかあんのかよー。
「いやまあそんじゃ同棲じゃなくて住み込みで働いてるってことなのかね」
「そですよー」
 ちょこんと座ったまま、素直に答える。音芽は口元を歪ませ、俺の方に向き直る。
「さて摘人っちや、新しい彼女が出来たって言ってなかったかねあんた」
「ええそれはもうシャイアさんこそわたくしめの未来の妻今は恋人」
 ずばーん!
 派手な音が響き、ハリセンが俺の頭を一閃する。
「なーんでやねーん」
 いいぞシャイアよくツッコミのコツを身につけたいつでも免許皆伝ってどこから出したハリセン。
 ほら音芽姉さんも呆気にとられてるよ。
 シャイアははっと我に返り、座り直すと恥ずかしそうにハリセンをテーブルの下にしまった。
「大体なんでシャイアちゃんはわざわざメイド服なんて着てるんだね、普段着でいーだろうに」
「あや? そ、そーいえばそうですねえー。なんか癖になっちゃってましたけど、どうしてわたしいつもメイド服」
 俺は目を輝かせて右手を高く掲げる。
「ええそれはもう俺ちゃん様の趣味で御座いましてやはりメイドさんと言えばこの服でこそたまらぬ魅力といつでも悪戯をしたくなるような色気に満ちあふれ」
「シャイアちゃんあたしこいつ押さえてるから」
「ありがとうございますー。はいごしゅじんさまあ、顔面ハリセンはちょおっと鼻血とかぶーしちゃうかもしれませんよおー」
 君ら意気投合早いっつかニコニコしながら何ですか怖いようわあん!





 そもそもだ。
 あれは音芽と別れてから一月は経とうかという雨がしとしととけぶる春の日だった。
 俺は銀行帰りに住宅街の路地を歩いていると、一人の幼い少女が雨に濡れて佇んでいた。
 その目は虚ろで、何も映しては居ない。
 身体を伝う雨を拭うこともなく、ただ濡れるに任せている。せっかくの金髪もくすんで垂れ下がっている。
 あっちゃあこいつぁヤバイ人だぁ☆ さもなくばこの世ならざる者ぉ☆
 と俺は目を合わせないようにしつつそそくさとその横を通り過ぎた。
 しかしそこで、俺は何となく気になって、振り返って少女の様子を見る。
 横顔はいかにも幼く、頼りない。
 ざあと雨の音だけが俺と彼女を包む。考える前に、俺は行動していた。
「お嬢さん」
 俺が声を掛けると、少女は一度瞬きをして、長いまつげから水滴を弾かせる。
 そうしてゆっくりとこちらを振り向いた、その瞬間、
「いっただきー!」
 俺は少女の手を握り傘の中に入れて家路を駆けていた。
「はやっ、ややややあっ!? ふわああああっ」
 やーもうこゆ可愛い子なら幽霊でもだいかんげーってかヤバい人なら俺が面倒見て良いように育てっちゃうよげひゃひゃひゃひゃ!
 ぺしゃぺしゃと水たまりを蹴り飛ばしながら俺は玄関の戸を開け少女を中に入れ、さっさっさとお風呂場に直行。
 廊下が濡れるけどキニシナーイ!
 されるがままの少女。目をぱちくりとさせている。
「さあさ脱ぎ脱ぎしましょうねえー」
 と、雨でびしょ濡れな少女のブラウスに手を掛けたところで、
「なななな何をなさるですかー!?」
 ばっちーん。
 ようやく我に返った少女から平手を喰らった。
 何だ普通の子じゃーんと俺が昏倒すると少女は俺の横っ腹を蹴り飛ばして脱衣所から転がし追い出した。
 ぴしゃーんとドアが閉まって暫くするとシャワーを浴びている水音が聞こえてきた。
 なんだなんだとかびっくらこきつつ、俺の身体はそろそろと脱衣所の戸を開けていた。おおなんと分かりやすい俺。
 とりあえず脱いだもののチェック。
 やあ可愛い下着だなあ、ぶははミニサイズだ。
「すみませんそこの人ー」
 ぎゃあと俺は仰け反る。やっぱり分かりやすいですか俺。
「居るのは分かってますー。怒らないですからタオル持ってきてください」
 はいすみません只今お持ち致します。
 俺は速攻で箪笥からタオルを引っ張り出してきて、風呂場に舞い戻る。
「持ってきましたー」
「あー、そこに置いてください、すみません、見ず知らずの方にごめんなさいこんなこと」
 と、しおらしいお返事。
 俺はシャワー戸に手を掛けて、
「いえいえいえご遠慮なさらず、今お渡し致しま」
「あ、今ドア開けたらぶっ殺しますからー」
 謙虚なのかデンジャアなのか分からんですあなた。





「あああっ」
 少女が出てくるのを脱衣所の前でまんじりともせず待っていると、突如素っ頓狂な声。
「なんだ何です何事ですかっ」
「なんでそんな嬉しそうな声色なんですかっ。開けちゃだめですっ」
 気づかれていた。
「着替えがー、無いんですよー」
 そりゃそうです。
 と言うより君ひとんちに来て何してるんだ。てか連れてきたのは俺だけどさ。
「ああああのう、厚かましいとは思うんですけれどその、何か、着るもの」
「よし任せなさいこの俺が毎日付けているブラとパンツを」
「やです」
「嘘です御免なさい」
 もの凄く刺々しい声で断られました。
 しょうがないので俺の普段着を貸します。またも箪笥からどたばた引っ張り出してきて、戸の隙間から差し出された白く細い腕に一着ずつ渡してゆく。
 やがてぶかぶかの服を身に纏った少女がおずおずと現れた。
 すっかり血色も良くなり、湯上がりで上気した薔薇色のほっぺがなんとも微笑ましい。
 ああでも金髪は汚れてたのじゃなくてもともとくすんでたのか。茶色に近い髪からほんのりと湯気が立っている。
 でも、地味な色合いが少女には似合っている気がした。
「お風呂を貸して戴いて助かりましたー」
 少女はぺこりとお辞儀をする。
 どうも俺と少女の一連の行動は「お風呂を貸してあげた」で収束するらしい。
「それでええとあのお」
 きょろきょろと辺りを見回して、とまどったように俺の顔を見上げる。
 なんだか子犬みたいで可愛い。
「まままこんなところで立ち話もなんだからどうぞこっちへ」
 俺は居間に少女を案内する。少女の着た俺の服はサイズが大きすぎて、彼女はいかにも動きづらそうにしている。
 事実、少女は、廊下で一回ぺしゃんとずっこけた。
「いーたーいー」
「おお大丈夫か」
「この廊下硬いですねえー」
 柔らかい廊下なんて有るのか。





「ええと、まあ」
 金髪の少女を居間に通し、対面に座る。
 俺は急須を持ってくると、来客用茶碗にお茶を注ぐ。少女はそれを楚々として受け取り、優雅な手つきで口元に運ぶ。
 それにしても。
 何でこの子はこんなにお茶を飲むのが様になってるんだ。
「そうだな、何から聞いたものか」
「あ、あ、先に申し上げておきますとですね」
「そうですかスリーサイズは上から72・54・75」
 ずずーとお茶を飲み干す少女。
 茶碗を投げつけようと振りかぶった手を慌てて止めるんです。
「いやそれはシャレにならない」
「セクハラは30年以下の禁固刑ですよ」
 それは重すぎ。
「まあまあそんなに青筋立てないで」
「あなたはいつもそーゆーえっちいことばっかり言ってるんですか」
「はいワタクシ五分に一度はセクハラ発言をしないと死んでしまう病気で」
「死ね」
 酷いっス見ず知らずのあなた。
「えー、こほん」
 気を取り直したように少女が咳払いをする。
 そしてそのまま、少女は片目を開けて俺の様子を伺う。二人の間に、沈黙が流れる。
「いいですね言いますよ、邪魔しないでくださいね」
「ええと、いや、待って、いま、新しいネタを」
 少女再び茶碗を振りかぶるのでワタクシ縮こまって黙りました。
 茶碗を再びテーブルに戻し、少女は神妙な表情を作る。
「信じてくれるかどうか、その、まあ、ともかく」
 俺は黙って耳を傾ける。呟くような声で、少女は告げた。
「わたし、実は、記憶喪失、っぽいんですよ」
 え。
 俺は絶句する。
 それはまるで、うん。
 まるで俺と、一緒だ。
「とゆーわけであの、なんであそこに立ってたかーとかもよく、その、分からないんです」
 そうか、そうだろうな。
 記憶を失うことの不安さ、空虚さは俺が良く知っている。
 俺の場合は音芽が居たからまだ救われた。
 しかし彼女の場合はどうだ。
 流暢に日本語は扱えるようだが明らかに彼女は欧米人、こんな極東の町で雨に打たれて、何も、考えられなかったに違いない。
 身体を濡らす雨を避けようにも、彼女には、宿る屋根が無いのだから。
 雨に濡れたままの彼女の横顔がぱっと脳裏に甦る。
 俺の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「ですからええとその、あなたはわたしをこう、拉致りましたけど」
 言葉悪いなオイ。
「ひょっとして、わたしの、知り合いだったりするのでしょうか」
 酷く不安げな表情で、彼女は俺の顔を覗き込む。
 どうだろう?
 俺はなんと答えるべきだろうか?
 もし俺が彼女の知り合いで有れば。彼女は罪悪感に苛まれ。
 もし俺が彼女の知り合いでなければ。彼女はまたひとりぼっちだ。
 どちらを向いても辛い選択。しかし彼女にはそうするしかない。
 彼女に何が有ったかは知らないが、俺は、こんな小さな少女に悲しい思いは、させたくない。
 俺は少女の瞳をじっと覗き込む。
 ブルーの目が俺をきょとんと見つめ返す。
「実は君は、俺の奥さんだったんだ」
「あ、それはないですねー」
 なんて爽やかな笑顔なんだあんた!
 俺がその仕打ちに固まっていると、少女は、すっと立ち上がり、お世話になりましたと告げて玄関に向かう。
 虚を突かれた俺は慌てて膝を立て、少女を追う。
「あ、こら、どこに行くんだ」
「ええと、あなたがお知り合いじゃないのは分かりましたから、その、他の知り合いを捜しに」
「あてが有るのか」
「無いですよー。でもとりあえずは、歩いてみないと」
 にこっと笑う。その笑顔には一片の曇りもない、しかし俺にはそれが、とても悲しいものに見えた。
 たった一人で、知り合いを捜すと、彼女は言う。
 彼女だってそうしたいわけじゃない、だけど。
 彼女にはもう、そうするしかないのだ。
 ここはきっと、彼女には居心地が悪いのだろう。
 しかし、分かっているのか? 何処に行っても、居心地のいい場所なんて、有りはしないんだ。
「あそうだ、お洋服も借りっぱなし、に、なっちゃいますねえ。ええっとあの、知り合いが見つかったら返しに来ますから、その」
「ダメだ」
「ふえ」
 ぽかんと少女は口を開ける。俺は渋面で俯き、首を振った。
「いや、ダメだ。そんな不確かな約束は信じられない。いや、違うんだ、そうじゃなくて、ああ」
「ええっとぉ、うー、困りましたね」
 少女は尚も出ていきたげに玄関へ足を向けようとする。しかし俺は、彼女の腕を掴んで、それを留めた。
「警察に行くにしてもほら、身元証明とか、必要だろうし、見つからなかった場合、どうするかとか、その」
「これ以上あなたにご迷惑を掛けるわけにも、いきませんしー」
「やっ、いや、待て、ともかく、待ってくれ」
 支離滅裂な俺の物言いに首を傾げて、少女は苦笑いのまま俺の顔を見る。
 どうしたんだ。
 俺の中で伝えるべき言葉が見つからない。
 気持ちだけはこうして強く強く有るのに、俺の脳裏には沢山の語彙が飛び交いさらなる混乱を呼ぶ。
 握っている手は細く、儚い。
 俺はこの少女を離したくないと思った。今ここで別れを迎えるのは、俺にも、あなたにも、それは、残酷だと、そう思った。
 そうだ。
「俺の側に、居て、欲しい」
「へぁ」
 喉の奥からただそのまま漏れたような声を出して、少女は呆然としている。
 俺は一旦、自分の首を振って、言葉を組み立て直す。
「いやその。君さえ良ければ、うちで、まあ、家事手伝いとかして働かないか」
 二三度、目を瞬いて、少女は呆気にとられている。
 既に俺は手を離していたが、少女はもう、そこに立ったまま、出ていく気配を見せない。
 俺は何かを誤魔化すように、必死に言葉を紡ぐ。
「いやその。男一人暮らしだと色々こう、家事とかも面倒で、な、キッチンとか全然使ってないから、あ、いや、まあ、給料とか払うし、当然、専用の部屋も」
「あなたみたいなセクハラ魔人と一緒に暮らすなんて御免被りますよー」
 何でも笑顔だなあんた!
 マジスカーと俺は愕然として頭を垂れる。
 すると彼女は、何だか慌てたように、俺の前で両手を振る。
「あ、あ、あ、ですからー、そのー、そじゃなくてー」
 俺は顔を上げる。
「セクハラさえ抑えてくださればあのわたしだって、喜んでお言葉に甘えさせて戴こうかな、なんて、あの」
 少女は何か気恥ずかしいのか、顔を背けながらそんなことを言う。
 おやまあ。そうかい。
 俺は頬を染めた少女の横顔を見つめて、ごく自然な動作で、穏やかに微笑んだ。
 そして少女の腕を取り、その小さな手としっかり握手する。正面を向いた彼女と、視線が交錯した。
 雨の出会いもこの握手も、きっと何かの運命だろう。
 居心地の良い場所が無いのなら、俺が君に作ってやる。音芽が俺にそうしてくれたように。
 もう恐らく、離しはしまい。固く握手して、少女に笑いかける。
 少女は、花がほころぶような、恥じらい混じりの笑顔を見せた。
「そう言えば。名前、聞いてなかったな。あ、名前は覚えて」
「あ、はい。それだけは覚えてるんですよー、不思議ですねー」
 少女は俺から一歩間合いを取り、深々と頭を垂れる。
「若輩者故何かと不都合も有るかと思いますがどうぞ宜しくお願い致しますね、ご主人様」
 そして一拍呼吸を置き、
「私の名前は、シャイア。シャイア・メイデンと申します」
 外ではまだ、雨がざあざあと降って、小鳥のさえずりをかき消していた。


(つづく)



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