あわてんぼうのサンタクロース


 庭の土を踏むと霜柱がしゃりっと崩れる。

 そんなことが当たり前の季節。

 俺は身を縮こまらせて炬燵にあたりながら、せっせとツリーの飾り付けをしている従姉妹を眺めていた。

「じんぐるべーる、じんぐるべーる」

 まだ12月23日だというのに、もうすっかりクリスマスの気分らしい。

 今日はしかも、その従姉妹、水瀬名雪の誕生日であったりもする。

 だから彼女にとっては、クリスマスと誕生日は地続きの物なのだろう。

 名雪がツリーにふわふわの綿を取り付け終えた後、俺はこう言った。

「なあ、名雪。お前さ、プレゼントは何がいい?」

「プレゼント?」

 ほけっとした顔で俺を見つめ返す。

 そして、

「え、ええーっ……? 祐一、わたしにプレゼントくれるの?」

 と、心底驚いたような表情を浮かべた。

 どうやら俺にプレゼントを貰えるなんて思っても居なかったらしい、俺は苦笑いを浮かべた。

「ほら、どーせ誕生日とセットだろ? せっかくだからさ」

「う、うーん。突然言われても」

「そうかいらないのか。分かった」

「わ、わーっ、いる、いるよー」

 ばたばたを手を振って必死に俺の言葉をうち消そうとする。全く、冗談だというのに。

 しかし名雪は、人差し指を顎に当て、うーんと唸ると、

「でもさ祐一、そーゆーのって、もっと前から準備しておく物じゃない?」

 もっともな意見だ。俺は黙りこくった。

「うん? どしたの? あ、もしかして、今まで忘れてたとか」

「ぐあっ、なぜ分かった」

 俺が大仰におどけてみせると、彼女は呆れたように微笑み、

「ゆーいちのことだもん。……でもね」

 と、そこで一旦言葉を切り、

「貰えるなんて思ってなかったから嬉しいな」

 そう彼女は言う。

 しかし、俺が今まで忘れていたというのは、嘘だ。

 本当のところは、プレゼントを何にしようか、今まで延々と悩み抜いたあげく、最終手段の「本人に聞く」を実行に移した、と言った方が正しい。

「――それで、何がいい? あ、俺の懐具合も考えろよ」

「わかってるよー」

 はんてんの裾をはためかせて立ち上がると、彼女は無邪気に笑う。

「うーん、どーしよっかなーあ」

 そのままぽてぽてと炬燵の周りを歩き始める。真剣に悩んでいるらしい。

「指輪……宝石……」

 ぶつぶつと危険なことを口走る。

「お、おいっ、俺の財布はぺったんこだぞ」

「冗談だよー」

 暖かい室内だというのに、冷や汗が吹き出るような冗談は止めて欲しい。

「目覚まし時計……ぬいぐるみ……」

 うん、その辺りが順当だろうな。

 ああ、そういえばぬいぐるみ、と、いえば。

「おい、名雪」

「なーにー?」

 ぴた、と歩が止む。

「お前、かえるのぬいぐるみ持ってたろ?」

「けろぴー」

「ん?」

「けろぴー」

「あ、ああ、ああ。それそれ。けろ山権三郎って名前か」

「けーろーぴー!」

 口を尖らせて抗議される。

「悪い悪い。けろぴーな。随分あれもぼろぼろだろ」

「うん、そーだね」

「だから、俺が新しいの買ってやるよ」

「え? 新しいの? いいよ、いらない」

 そっけなく、そう言われる。

「そう言うなよ、そんなにあの古いのが良いのか?」

「……」

 名雪はつんとして黙っている。

 人が買ってあげようと言うのに、その態度はちょっと腹が立った。

「今のけろぴーが、いいんだもん」

 そうか。それじゃ。

「良し分かった」

 俺は立ち上がると、目を見開いている名雪に、

「今から俺がけろぴーを捨ててきてやる。これで万事解決――」

 いつもの軽口のつもりだったが、俺は途中で言いよどんだ。

 名雪の様子が、目に見えて変化してきているからだ。

 ぐっと拳を固め、ふるふると震えているように見える。

 ――怒っているのか?

 ちょっと言葉が過ぎたか、と、俺が謝ろうと口を開くと、

「祐一の、ぶゎかっ!」

 間髪入れず、名雪は俺を強く叱責した。

 俺は仰天して固まってしまった。

 名雪が、こんなに怒るなんて。全く、予想外だった。

 はぁはぁと荒い息を鎮めると、んっと息を呑み、名雪は踵を返してばたばたと二階に駆け上がっていった。

「……あちゃあ」

 俺は何も出来ず、ただ呆然と名雪の背中を見送った。

「どうしたんですか?」

「うわっ」

 気が付くと、傍らに秋子さんが立っていた。

「あ、秋子さん。夕食の準備は終わったんですか?」

「ええ、今シチューを煮込んでいます。それで、どうしたのかしら? 名雪がなんだか、大声を出したようですが」

「いや、実は――」

 俺は、事の顛末を話した。

「あらあら、なるほど」

「やっぱり、愛着があるんでしょうね……俺もちょっと口が過ぎたかな」

「ええ、でも、けろぴーは……名雪にとっては、特別なものなんですよ」

「え?」

 秋子さんは、いつもと変わらないたおやかな微笑みを浮かべている。

「そうですね。祐一さんにもお話ししましょうか?」

 けろぴーの、話、か。

 断る理由はない。俺は頷いた。

「それじゃ、ちょっと長くなりますから――そうですね、紅茶でも入れてきますね」

 頬に手を当て、秋子さんはすたすたと台所に戻ってゆく。

 そうして、数分後、秋子さんは俺と自分の目の前に湯気を立てるティーカップを置いて、いそいそと炬燵に入ると――

 訥々と、けろぴーの話を始めたのだった。





 それは名雪の幼稚園の頃の話だという。

 近所に、一人の爺さんが住んでいたそうだ。

 数年前に奥さんを亡くし、身よりもなかった彼は、名雪のことを実の孫と思って可愛がっていた。

 12月も半ばのある日のこと、

「ねぇねぇおじーちゃん、サンタクロースって知ってる?」

「うん? さんた……くろーす? ああ、テレビでなんか見たことあるねぇ」

 その当時の名雪はすっかり彼になついていて、暇さえ有れば縁側まで行って色々な話をしていたらしい。

 名雪は早くに父親を亡くしている、彼に対して父親の存在に近いものを感じたのかもしれない。

 事実彼は優しく、名雪にちょくちょくお小遣いやおやつをくれたという。近所でも、好々爺として親しまれていたらしい。

 今日もまた、いつもと同じように二人でお茶を啜っていた。

「そーそー。サンタさんはプレゼントをくれるんだよー」

「ほー、そうなのかい」

「それでねそれでね、良い子にしてないと来てくれないんだよ」

 彼は禿げ上がった頭をつるりと撫で、

「ふんふん、名雪ちゃんは良い子だからきっと来てくれるだろうねぇ」

「うんっ、楽しみー」

 と、そう言う会話をしてきたらしい。

 秋子さんはそれを聞くと、もしかしてその老人がプレゼントをくれては申し訳ない、と、

 さすがに差し出がましいかと思いつつ、それとなく尋ねに行ったそうだ。

 すると、彼は秋子さんの顔を見た途端、開口一番、

「おー、水瀬さん。さんたくろーすっちゅうアレの服は、どうすれば手にはいるかね?」

 と、こともなげに言い放った。

 さすがの秋子さんもこれには面くらい、断る気も無くなってしまった。


「せっかくの行為を無にするのも、どうかと思いまして」

 秋子さんは蜜柑を剥くと、俺に一房差し出した。


 ――それならいっそのこと、と、秋子さんはどこからかサンタの衣装を手に入れてきて、かの老人に差し上げた。

「おお、これなら名雪ちゃんも喜ぶねぇ」

 と、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして微笑む彼に、秋子さんはとても感謝したそうだ。


「それまでは、名雪がご老人の慰めになれば、なんて傲慢なことを思っていたんですが、私も名雪も、すっかりその方にお世話になってしまいました」

 俺は黙って聞いている。秋子さんは紅茶を一口啜ると、また続きを話し始めた。


 さすがに、テレビが発達したこのご時世では、幼稚園児であってもサンタの存在など信じてはいないだろう。

 それは名雪も、例外ではなかった。

 夢のない世の中になってしまいましたね、と秋子さんは一人ごちる。

 しかし、近所の爺さんがサンタさんになってイブの夜にやってきたら、それはもう名雪も喜ぶだろう。

 そう秋子さんは思っていた。だが――

 23日の、夜。

「ごめんくださーい」

 インターホンを鳴らす音。

 秋子さんが玄関を開けると、そこには真っ赤な衣装に身を包んだかの老人の姿が。

「ああどうもこんばんは。今日は冷えるねぇ、名雪ちゃんは居るかね?」

 名雪は肝心のクリスマスの事を話していなかったのだ。

 だから、彼はプレゼントと聞いて、誕生日のことと勘違いしてしまったらしい。

 秋子さんはあらあらと困って、今日は帰って貰おうとすると、二階から、ぱたぱたという可愛い足音が。

「おじーちゃん来てるの?」

 声を聞きつけてやってきたらしい。

「あーっ!」

 名雪は彼の格好を見て大きく口を開けた。

 どうしよう。イブは明日だというのに、このままでは大失敗になってしまう。

 秋子さんが悩んでいると、名雪はにぱっと微笑み、

「おじいちゃん、あわてんぼうのサンタクロースだー! クリスマスは明日だよー!」

「ほ、あわてんぼう? そうか明日か! こりゃあわてんぼうだなぁ」

 二人は、声を上げて笑った。

 秋子さんは、ほっと胸をなで下ろした。


 それから、毎年。水瀬家には、「あわてんぼうのサンタクロース」がやってくることになった。

 プレゼントは、秋子さんが用意しようとしたのだが、老人にやんわりと断られたらしい。

 贈り物は、渡す本人の気持ちがこもってなくちゃ嬉しくない。だから自分で用意するよ、と言われたそうだ。

 本当に名雪のことを思ってくれてる方でした、と、秋子さんは紅茶を一口啜る。


 また、数年後のことだ。

 秋もすっかり深まった頃、名雪と共にすっかり枯れ果てた庭木を眺めながら、気が早いかと考えながら、彼が尋ねる。

「名雪ちゃん。今年はどんなプレゼントがいいかな?」

「うーんとねぇ、うーんとねぇ、かえるさん!」

「かえるさん? かえるさんなんて、気持ち悪いんじゃないかい?」

 彼は眉根を寄せ、ううんと首を傾げる。

「違うよおー! ふわふわでね、可愛いんだよー」

「ふわふわ? ああ……ぬいぐるみ、か」

「そー! ぬいぐるみー! おじいちゃん、なんか描く物貸して」

「あいよ。ペンと、よいしょっと、広告の裏でいいかな?」

「うんー」

 ペンを受け取ると、すらすらと名雪は筆を走らせる。

「ここが緑でねー、おめめがまん丸でねー」

 彼はその姿を嬉しそうに見つめている。

 名雪は稚拙ながらもそれなりに可愛いカエルの姿を描き上げると、満足げに、

「これー、こんなのー」

 と、彼に手渡した。

「うんうん。こんなぬいぐるみさんが良いわけだ。売ってるかな?」

「うーん。どうだろね……ダメだったら、しょうがないね」

 きっと名雪も、名雪なりに、お爺ちゃんに無理を言ってはいけない、と思っていたのだろう。

 しかし、老人は胸を張ると、

「いや! 大丈夫だ名雪ちゃん、きっとあわてんぼうのサンタクロースがなんとかするよ」

「ほんとー?」

「ほんとだとも」

「わーいっ、楽しみにしてるねー」

 名雪はその日、喜色満面で水瀬家に帰ってきたという。

「くりすますまでー、あと、ひいふうみー……」

 その日から、指折り数えてカレンダーを眺める娘の姿を、秋子さんは微笑ましく眺めていた。


 しかしその年、あわてんぼうのサンタクロースはやってこなかった。

 彼が、突然の病に倒れたのだ。

 それを見つけたのは名雪だった。

 いつも居るはずの彼が縁側に出てこないので、勝手知ったる何とやら、新聞受けの底に隠されてる合い鍵を取ると、玄関を開けてあがりこんだ。

「おじーちゃん……おじーちゃーん?」

「ぅ……あ、なゆきちゃん……」

 彼は寝室で布団に寝そべっていた。

 顔色は青ざめ、額には脂汗が浮き、子供の目にもそれが危険な状態だと分かった。

「お、おじーちゃん、大丈夫!? わあっ、熱、すごいよぉっ……お、起きあがっちゃダメ!」

 せっかく名雪ちゃんが来てくれたのだから、と上半身を起こした彼の背中を、名雪が気遣わしげにさする。

「大丈夫だよ、このくらい、たいしたことな……んげほっ、がほっ」

「おじーちゃん、おじー……あぁっ!」

 彼のした咳には、血が混じっていた。

「おじーちゃんっ、寝て、待っててね!」

 名雪は彼を残すと、家に戻った。しかし、報告すべき母、秋子さんは、その日、仕事に行って留守だった。

 どうしようと途方に暮れた名雪は、居間のソファに力無く座り込む。

 おじーちゃんが……おじーちゃんが大変なのにっ!

 ほどなく、名雪は意を決したように立ち上がると、119番に電話した。

 ただたどしい手つきで、ダイヤルを回す。

 最初は子供の悪戯かと思われたそうだが、名雪の真剣な様子に、救急車が出動した。

 家に帰ってきたら突然救急車が居て、名雪が何事か騒いでいて……驚きました、と秋子さんは当時を思い出す。

 担架に乗せられ、老人は白い車に乗せられると、病院へと運ばれた。遠ざかる赤いランプが、今でも目に焼き付いているという。


 受付で病室の番号を聞き、看護婦さんに礼を言うと、秋子さんは名雪を連れてそこへと向かった。

 病室のドアを開けると、期待していたかくしゃくとしたいつもの姿は無く、ベッドに力無く横たわった彼の姿が現れる。

 それが、在りし日を思い出させて、ますます二人の心を締め付けた。

 体中に取り付けられたチューブが傍目にも痛々しく、脇にはなにやら仰々しい機械が置かれている。

 こんなんじゃあ名雪ちゃんに笑われちゃうなあ、と無理をして弱々しげに笑う彼に、秋子さんは微笑むことが出来なかったという。

 部屋を出て、ドアを閉めると、名雪は秋子さんの裾をくいくいとひっぱり、

「おじーちゃん、ひとりぼっちのお部屋なんだね」

 と言った。その言葉に秋子さんはハッとした。

 最初から個室だなんて、そんなに重い……まさか、もう長くは……

 秋子さんはその考えを振り払い、いいえ、今運ばれてきたばかりだから個室なんだ、あの設備は大事をとってのものなんだと、自分を納得させたという。

「おじーちゃん、すぐ、元気になるよねっ」

 そう心配げに言う名雪に、どう説明しようか困ったそうだ。


 しかし、彼の容態は思わしくなく、日に日に元気がなくなっていくのが辛かった、と秋子さんは言う。

 名雪は、学校が終わると、すぐに病院へお見舞いに行った。秋子さんも、出来る限りそれに付き添った。

 もう満足に口も利けなくなった彼も、名雪が来ると、自然に微笑みを浮かべたそうだ。

 彼は、懸命に、やせ細った腕で名雪の頭を撫でたりして、心配そうな表情の名雪を安心させようとしている様に見えた。

 その場にいた医師が、お孫さんですか、と聞くと、秋子さんが否定する前に、

「うん、わたし、おじーちゃんのまごだもんっ!」

 名雪はきっぱりとそう言い放った。

 老人は何も言わなかったが、その目尻には涙が浮かんでいた。


「クリスマスまでには、退院してね」

 名雪は、やせ細った彼の手を取ると、ぎゅっと拳を形づくらせ、指切りげんまんをした。

「嘘付いたらはりせんぼんのーますっ」

 手を放した名雪は、何かを感じていたのか、声を殺して、秋子さんに支えられて泣いた。

「約束、したんだもん。おじーちゃんと指切り、したんだもんっ」

 そのころの名雪は、お見舞いにいってる時以外は、ずっとカレンダーを眺めていることが多かったと言う。

「約束、だもん」


 しかし、その約束は果たされなかった。

 12月22日。いよいよ、彼の容態が急変した。

 外はちらほらと雪が降って、陰鬱なに曇った空が、何かを暗示しているようだったと言う。

「おじーちゃん! だめだよ、明日だよ、あわてんぼうのサンタさん!」

 必死の呼びかけにも、彼は苦しそうに頷くばかりで、他に何も出来なかった。

 傍らで痛々しげにその様子を眺めていた秋子さんが、

「名雪。だめよ、おじいちゃんが困ってるでしょう?」

 と言い聞かせると、名雪はふっと秋子さんの方を向いて、

「うわぁぁぁぁ〜〜〜ん」

 と、大声で泣き始めた。その場にいた医師も、看護婦も、秋子さんも、慰めることも出来ず、沈痛な面もちで立ちつくすしかできなかった。

 すると。

 老人の口が、ぱくぱくと開いた。

 何かを言いたいのか、と、わんわん泣いている名雪の代わりに、秋子さんがそっと耳を近づけると、

「な……か、せ、ちゃ……だ……めだ」

 泣かせちゃだめだ、と。


「――そう、言ったんですか」

「ええ。最後まで、名雪のことを心配してくれて……」


 泣き疲れた名雪が病院のソファで眠ると、老人は、秋子さんに看取られながら、医師によって臨終とされた。

 実に、23日になった直後だったという。


 名雪の誕生日とクリスマスを返上して、秋子さんは近所の人と手分けし、お通夜と葬式の準備をした。

 この子がぐずるかしら、と秋子さんは思っていたそうだが、名雪はただじっと黙って、ずっと彼の遺骸の横に座っていたという。

 結局親族は見つからず、水瀬家の墓に葬られることになった。

 遺体を火葬場で焼いているとき、喪服を着た秋子さんが名雪と手を繋いで、じっと彼が運ばれていった扉を眺めていると、ふと名雪が口を開き、

「おじーちゃん、どこに行ったの……?」

 本当に、ふっと、秋子さんはその答えが浮かんだという。

「お爺ちゃんは……お空に行ったのよ……」

 それを聞くと、あの日以来、ずっと黙ったままだった名雪が、また、わんわんと泣き始めた。

 秋子さんも、ハンカチで目頭を抑えると、しゃがみ込んだ。


「泣かせるな、って言われてたのに、ダメね、私も」

「いえ……」

 そんなことは有りませんよ、と言うと、

「有り難う御座います、祐一さん。優しいですね」

 優しいのは秋子さんの方です、と思ったが、さすがに気恥ずかしく、口には出せなかった。

「それで、色々一切合切終わった後……うちに戻って、手紙を読んだんです」

「手紙?」

「ええ、手紙」


 その手紙は、彼が臨終を迎えた後、担当だった看護婦さんから手渡されたらしい。

 なんでも、彼がまだ喋ることが出来た頃、自分の死期を感じていたのだろう、遺言として看護婦さんに口述筆記させたものらしかった。

 手紙は簡素な便せんに書かれていて、封筒にも入っておらず、実にそっけない物だったという。

 ぺらりと手紙を開き、ボールペンで書かれた内容に目を走らせる。

「――っ!」

 秋子さんは思わず口を押さえた。

「おかーさん? どーしたの?」

 ほろほろと涙をこぼしながら、秋子さんは、心配そうにそんな母を見ている名雪に手紙を渡した。

 名雪はその手紙を読むと、口をぐっと結んで立ち上がり、あわただしく玄関から出ていった。

 その手紙の内容は――

『名雪ちゃんへ』

 名雪は走った。一生懸命に走った。毎日通った、彼の家への道を。

『うちの布団部屋の押し入れを開けてごらん』

 あの日のように、新聞入れの奥から合い鍵を取り出すと、鍵を開けるのも時間が惜しいように、ぱたぱたと主を失った家にあがりこんだ。

『あわてんぼうのサンタクロースからの最後のプレゼントだ』

 軋む廊下を走り、がらりと襖を開ける。寝室は、全てがあの日のまま、時を止めていた。

『あわてんぼうだから、下手くそかもしれないけど、許してな』

 押し入れの戸を乱暴に開け放つ。すると、下の段に、奥さんの物とおぼしき裁縫道具と共に――

『なんせ裁縫なんてしたことないからなあ、大事にしておくれよ』

 名雪が描いたそのまんまの、かえるの、ぬいぐるみが。

『あわてんぼうの、サンタクロースより』

「おっ、おじっ、おじいちゃーんっ、おじいちゃああああーーんっ」

 名雪はそのかえるを抱きしめて泣いた。

 これ以上ないほど、大声を張り上げて、泣いた。

 秋子さんが迎えに来るまで、ずっと、ずっと、泣いていた。


 ――その日から、けろぴーは、水瀬家の一員になったのだ。


「そう、だったんですか――」

 俺は目に浮かんだ涙を隠すように、うつむいていた。

「ええ――」

 秋子さんは、ポケットから取り出したハンカチで、目頭をぎゅっと押さえていた。

 二人とも押し黙ったまま、やがて、気持ちが落ち着いたところで、紅茶を一息に飲み干すと――

 ばたばたばたばたっ。

 二階から、何者かが駆け下りてきた。

「ゆーいちっ、けろぴーは捨てたりしちゃだめだからねっ」

 今までずっと怒っていたのだろう、名雪の顔はほっぺたまで真っ赤で、その腕には、件のけろぴーがぎゅっと抱きしめられていた。

 俺は目を細めて、言った。

「ああ。絶対に、手放しちゃダメだぞ」

「え?」

 ぽかんとした名雪をよそに、ふと窓の外を見る。

 どうも冷え込むと思ったら、ちらちらと白いものが舞っていた。

「わー。雪だ」

「明日なら、ホワイトクリスマスだったわね」

「今日でも私の誕生日だもんっ」

「うふふ、そうね、名雪」

 秋子さんは「雪」にアクセントを込めて娘の名前を呼ぶ。

 雪なんて珍しくない地域だ、きっと明日も降るだろう。

 しかし、俺にはそれが、あわてんぼうのサンタクロースがくれた最高の誕生日プレゼントだとしか思えなかった。




(終)


Libraryへ   トップへ