『水瀬秋子の世界。そして幸せの方向性』



written by sakuraduka





 彼女――水瀬秋子の朝は早い。太陽が昇る頃には既に着替えを済ませており、起床して十分を過ぎる頃には部屋を
出ている。もっとも、特にしなければならない事などある訳もなく、秋子は手持ち無沙汰な間を潰すように掃除を始めて
いた。とはいえ毎日掃除してあるために、埃などほとんど無い。だがそれでも秋子は時間をかけて掃除をしていった。
 そして八時が近づいてきた頃になり、朝食の準備を始める。
「……さて」
 朝のメニューはあまり変わらない。パンが二・三枚とジャム、そして紅茶かコーヒー。あまり時間がかかるメニューで
はない。故に秋子が早起きをする理由はどこにもなかったのだが、習慣化された起床時刻は容易に変化したりはしなかった。
 お湯を用意するために秋子は戸棚に手を伸ばしかけ、ふとリビングに目を向けた。リビングは明々と照明の灯りの
下にある。朝日が差し込んでいる訳ではなかった。
「………あ」
 ジャムの用意をしていた手を止め、秋子はふと雨戸を開けていなかった事を思い出した。秋子が起床する時間帯は
充分に明るいとは言えず、思わず照明を付けていたのだが、それが雨戸を開けていなかった原因だろう。小さく苦笑
を漏らし、秋子はリビングのカーテンと雨戸を開け、清々しいとしか形容出来ない朝を見た。
 隣の家の窓から反射した陽光が、彼女の瞳を焼く。いつもと変わらない、変わるはずもない朝――故にこそ新鮮に、
そして清浄な何かを含んだものに思える。
 だがそれがかえって今の秋子には、嬉しかったともいえた。フラットな日常を続けていられる事が。奇跡が起きたという、その事実が。
 脳裏に、半年前の出来事が映る。車。ケーキ。衝突。血。
「――私は死ななかった……?」
 意図せずにそんな言葉が口をついて出る。
 あれから約半年が経つというのに。
 衝突事故。
 あの日に起きた、自動車事故。避けようがなかった。秋子が娘である名雪から頼まれたケーキを店で買い、そしてそ
の直後の事だった。後から聞いた話によると、余所見をしていた――つまりは不注意事故だったらしいのだが、何故
か秋子はその運転者を責める気にはならなかった。
 ――理由?
 分からない。結果が良ければ全て良し、というつもりもないだろうが、意識を回復させた秋子の前に現れ、何度も頭を
下げて謝罪していた運転者を見ているうちに、責める気持ちが霧散してしまっていた。
 どうでも良くなった、という言葉を用いればそれだけで済む事だが。それも違うと思う。
「……私は、生きている…?」
 再度、秋子は言葉を発していた。だが頭のもう片方では、もう事故の事を意識しないでも良さそうなものなのにね―
―そうも思っていた。
 それは多分に感傷的なものだったのだろうが――幾度も繰り返され、そしてこれからも続いて行くであろう毎日の中
では、つまり変化に乏しい(いや、ある意味刺激的ではあるのだ)生活を重ねていれば、毎日のちょっとした事ですら感動を覚えてしまう。
「例えば、自分が朝を迎える事、とか――」
 迎える筈がなかった朝。
 これは後から医者に聞いた話だったが――自分は助かる筈が無かった。秋子の身体に衝突した車の速度はかなり
のもので、即死していてもおかしくないものであったらしい。さらにそれが正面からぶつかったものだから――
 内臓破裂。全身複雑骨折。額は割れ、おびただしい量の血液が流れた。脊髄に至っては深刻なダメージを受けていたらしい。
 つまり、まず助かる筈が無かったのだ。
 死ぬ筈だった。
 少なくとも治療にあたった医師や看護婦はそう思ったようだ――。ようだ、と言うのは他でもない。医者や看護婦はそ
んなことを一言も漏らさなかったのだから。だが、意識を回復した秋子を診察しながら、担当の医師は小さくこう漏らしていた。
 奇跡だ、と――
 まさしくそれは奇跡だったのかもしれない。そして望まれた奇跡であった。
 少なくとも、この世界に残されるはずだった二人にとっては。

  
 ――お母さん……!


 ――秋子、さん……?


 娘と、その恋人。
 秋子の家族。
 真夜中、昏睡状態から目覚めた秋子の視界に映ったものは、涙でぐしゃぐしゃになった名雪の顔と、そして娘のすぐ
隣に立っていた甥の祐一だった。
 これもまた後から聞いた話なのだったが――何故二人が病室に、それもこんな時間帯にいたかという理由は、医師
に電話でこう告げられたからだそうだ。
 今夜がとうげとなります、と。
 良かった、という祐一の短い言葉もその時に聞いた。覚醒直後の眠気にも似た意識の中で、それだけは確かに記憶
に残っている。そして名雪の――さらにも増して大きくなった泣き声。ただ、それは前のものとは違い、嬉し泣きだった。
 その時、不意に秋子は悟った。私はまだ必要とされているのだと。そして自分もまた、二人を必要としているのだと。
 ある意味それは当然の事だったのかもしれない。
 だけど、当たり前としてある日常の中では、なかなか気がつかないものね――また、苦笑する。
 ――そういう意味も含めて、二人に心配をかけてしまった。
 そう思う。泣き腫らした名雪の顔と、そして祐一の驚きと嬉しさの混じった表情と。それを見た瞬間に秋子は悟ったのだ。
 そして、こうも思う。
 だから二人には幸福になって欲しい――と。
「だけど祐一さんは照れ屋だから……」
 真っ直ぐに差し込んでくる陽光の眩しさを、秋子はゆっくりと遮った。
 雰囲気として分かる。まだ面と向かって言われてはいないが、祐一と名雪が恋人としての関係を築いている事を、秋
子は気がついていた。ちょうど半年ほど前からだろうか……。
 そして――あの時、祐一が必死に名雪を支えようと、せめて自分は隣にいようとしていていた事も。
 ……もっとも、名雪のあの目覚ましを聞けば、誰にとっても明白だけれどね。
 秋子はわずかに笑みを浮かべ、カーテンを引いた。軽快な音を立てて、レースのカーテンが朝をさえぎる。振り返れ
ば、陽光が柔らかく部屋を照らしていた。
 時計に目をやれば、そろそろ八時になる。気がつかないうちに、随分と長考してしまったらしい。
「いけない。考え事してたら、こんな時間になってる……」   
 あたふたとキッチンに戻り、テーブルに二人分のトーストを出す。片手で、いつでも紅茶とコーヒーを出せるように用
意をし、もちろんジャムも忘れない。
「さて、と……」
 朝食の準備を終え、秋子が一息ついたか否かというその間に、毎朝恒例の行事が始まる。いけないなと思いつつも、
秋子は耳を澄ませていた。


 どんがどんがどんがどんが……
「起きろ名雪! 遅刻したいのかっ!」
 どがどがどがどがどが……
「頼むから起きてくれっ。たまには落ち着いて登校出来ないのかっ!?」   
 どどどどど……
「うー……にゅー………。ねむ」
「妙な返事をするなっ。途中で言葉を区切るなっ。とにかく起きろ!」


 何度も呼びかける声と、扉を連打する音。
 まあ、水瀬家の朝はこうして始まるのだ。
 どこか微笑ましい、その言葉と音を聞いていると、やはり頬が緩んでくる。
「ふふ……」
 こちらまで幸せになってきそうなやり取り。
 秋子は笑みを浮かべながら、二人を待つ。もうしばらくすれば、二人が階段を降りてくるだろう。
 騒々しくも、楽しげに。
 こうして待っている間というのも、秋子にとっては幸せのひとつだった。かけがえのない幸福。だからこそ守っていき
たい、そんな何か。言葉では形容出来ない、何か――
 階段を二人が駆け降りてくる音が響く。時計に目をやると、やはり遅刻寸前のようだった。
 扉が開く。
「おはようございます、秋子さん」
「おはよお……。お母さん……」 
 起きてきた二人は、それぞれに顔があった。時間に焦っている祐一と、時間に構わず眠たそうな名雪。
もっとも、二人ともこういう朝のやり取りを楽しんでいるのかもしれない。
 でも、それは私も同じなのかもしれないわね――



 柔らかな微笑を浮かべながら、秋子は二人に振り返った。



 なんにしても感謝すべき事なのかもしれない。
 ひとつの奇跡と、ほんのわずかの朝の奇跡と、そして二人の奇跡と、そして――



 秋子は口を開く。 



 自分が――水瀬秋子が生きる、その世界に。

 
 「おはよう、二人とも」
  






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 まず最初にゴメンナサイ。
 何だか書き進めているうちに、こんなSSになっちゃいました。
 ほのぼの系の秋子さんSS……のつもりだったんだすけれども、
 ほのぼのともシリアスともつかないSSに。
 自分だって理解出来てるんだが……。
 まぁ、でもこんなのもたまには有りですよね?
 ……んー、やっぱ駄目ですか?








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