――――永い――――永い…夢を見ていた…そんな気分だ

 「流水」             

 窓から射し込む光で目が覚めた俺は、二日酔いの頭を抱えのっそりと起きあがった。
そして、何気なく隣を見ても、彼女は…いない。そんなことはもうわかってると言うのに。自分自身の仕草に苦笑しながら、ゆっくりと洗面台へ向かった。
 ぱしゃ、ぱしゃ…4月の水は、まだ冷たい。いかに人の叡知が此の世の隅々まで行きわたろうとも、人は結局自然と寄り添って暮らすしかないのだということを、つくづく思う。まだ水の滴る顔を拭くのも忘れて、俺はじっと水の流れを見つめた。水……水は……かたちを変え……場所を変え……何処へ行く?……何を見てきた?……何を見るのだ……くっ。
 どうかしてる。
 本当にどうかしてるぞ、俺。
 蛇口を閉め、顔を拭く。歯ブラシをつかみ、歯磨き粉をつける。残り少なくなってきたな、そろそろ買わないと……歯を、磨く。少し乱暴に、削るように。
 !
 反転。嘔吐の予感。
 胃が…灼ける。ぐっとこらえる。ここで吐いてしまえば、なんだか、自分の心の弱ささえも一緒に吐き出してしまいそうだったからだ。彼女がいなければ、俺は結局何もできない、弱い心を必死で隠して生きる人間でしかないのだから。それほど、彼女の存在は大きかった。大きすぎた。あまりにも大きすぎて、自分がひどく矮小な人間に思えた。彼女は、俺を完全に飲み込んでしまっていた。つまらないプライドのせいで、俺は、自暴自棄、自己嫌悪になった。そんな俺にも、彼女は優しく、限りなく優しく接してくれた。
 彼女に汚い言葉を浴びせ罵倒したことも、彼女に残酷な行為を強要したことも、彼女に暴力を振るったことも、一度や二度ではなかったと思う。しかもそのときの自分は、こみ上げる征服感と乾いた笑いの奥底で、情けなくも涙を流していた気がする。それでも、彼女は……あいつは、俺の心を知ってか知らずか、俺の言いなりになってくれた。俺は、そんな彼女にますます腹を立てて………
 そんなことがあった後は、俺は、必ず無口になり、ふさぎ込む。まるで親に叱られたガキのように。

「昨日は…ずいぶんと帰りが遅かったね…どこへ行ってたのかなぁ?」
 努めて明るく、彼女が問う。しかし、やはり無理してることが分かる。
「おまえにはかんけーねーよ」
 努めて冷たく、俺が言う。しかし、心の中はまだ俺のことを気にしてくれる彼女に対して、申し訳なさでいっぱいだった。




 飯を食う。昨日の夕飯の残りをフライパンで炒めて、塩コショウ、醤油をかけてできあがり。
 でもやっぱりあまりうまくない。

「まずい…」
「あ…ごめんね、やっぱりレタスは新しい方がいいよね」
「……………」
「あどこへ行くの…?」
「…どこでもいいだろ…」
「…そう…だよね…気をつけてね」
 それでも俺の身を案じるというのか!
 腹を立てた俺は、玄関のドアを力任せに締めてやった。

 一人で食べる飯はまずい……それに気づいたのは彼女がいなくなってからだった。彼女は、こんな風に毎晩一人で飯を食べていたのか?

 「大丈夫だよ!」彼女の、出会った頃の口癖。
 「ごめんね…」彼女の、別れる前の口癖。

 飯を食い終わった俺は、食器を流し場に持っていき、かちゃかちゃと洗う。流れる水を見ないように気をつける。

「どうして、そんなにずっと水を見てるの?」
「流れてる…から」
「???…わかんないよ」
「…っ…なら、黙ってろ!」
「ビクッ…ご、ごめんね…」

 甘えたい………甘えたい………どこかへ……逃げたい……
うつむいている俺を見つけては、彼女は俺をくっと抱きしめ、その細い指と小さな手のひらで俺の頭をなで、涙声でこう言うのだ。
「ごめんね……ごめんね……ほんとうに……ごめんね……」
 違う!謝らなければならないのは俺の方だ!
 しかしそんな思いとは裏腹に、頑なな俺は、何も言えずに涙をこらえていた。こんな時、俺は水の様になりたいと思う。さらり、さらりと、素直になれたら…

 



 食器を片づけた俺は、上を向いて、時計を見た。十時十分。そろそろ、隣町の図書館が開く頃だ。俺は、身支度を済ませると、力無い足取りで玄関をでた。表札が、二枚あるべきところが片っ方だけしかないので、何とも不格好だ。階段を下り、汚い駐輪場の奥にあるこれまた汚い自転車にまたがると、
「ズキン!」と頭が痛んだ。今晩は酒を控えなけりゃな…しかし酒がなければ、夢枕に立つ彼女とまともに対峙できようはずもなかった。

「ほら、どうした!?おまえは人間以下の家畜なんだぞ!?」
「……うえっ…ひっく……」
「……家畜が、泣くなあっ!」
バシッ!!!
「いっ……ご…ごめんなさぁい…」
「文句があるなら、いつでもでてゆけ!」
 しかし彼女は、絶対にでて行こうとはしなかった。ただ俺のことを哀しい目で見つめるだけだった。憐れみとは違う、そう、あの…哀しい目。
 あの哀しい目に見つめられると、俺の心は絶対に満たされることはなかった。

 自転車で15分ほど走ると、目的の図書館に着いた。そこで俺は、無差別に延々と本を読み続ける。いつもながら思うが、本というものは人類が生み出した最高の知性の塊だと思う。単なる白黒の記号の羅列に、人は自分の姿を映して読む。人はいつでも此の世ならざる所へゆけるのだ…。

 痣、痣、痣…生傷が増えていく彼女の体を、俺は「醜い」と罵った。どう考えてもその言葉は、狂い始めた俺の心に向けて言ったようにしか聞こえなかった。

 流れる…流れる………病んでいる…こころが見える……
 くらいこころにヒカリを当てれば、さらに暗い影ができ。影ができ。―――

 視界が歪む。頭にもやがかかっている。どうやら、寝てしまったらしい。窓から射し込む光は、優しく暖かく春を思わせ、また同時に彼女を思わせた。くしゃみを二回。カウンターに行き、貸し出しの手続きを受ける。眼鏡をかけた理知的な女性が、事務的に作業をこなしてゆく。計三冊の本を手に持つと、重いドアを開け、外にでた。
 どぶの中の水が、日光に反射して、きらきらと光っている。このとき綺麗なのは、光か?水か?俺は本を自転車の籠の中に入れると、鍵をはずし、「よっ」と発進した。時間を見ようと腕に目をやるが、腕時計がない。どうやら家に忘れてきたらしい。舌打ち。とにかく、いつも通り本屋へ向かう。途中、悪路にさしかかるので、籠から本が飛び出さないように気を配る必要がある。やがて、本屋に着く。
 
 彼女は、「それ」の天才だった。
 皆が彼女の才能を認めていた。
 皆が彼女の人格を褒め称えた。
 皆が彼女のことを愛していた。

 彼女は、「それ」を愛していた。俺は、「それ」を通じて彼女と出会い、愛し合った。彼女は、俺と「それ」を両方、しかし、それは全く違う意味で「愛していた」。しかし俺は……
 俺以外のモノに彼女が愛を注ぐのが我慢できなかった。
 ウツクシクカガヤクモノと供にいることが俺には耐えられなかった。
 彼女を俺同様の情けなく汚らしいモノに貶めてしまいたかった!
「…まだ「それ」をやってるのか?」
「あっ…ごめんね、今片づけるから……」
「いいかげんにしろ!」
「やっ…蹴飛ばさないで」
「俺と…「それ」と……どっちが大切なんだ?え?」
「それは…………」
「……………」

すべての雑誌に目を通す。彼女の名を探す。しかし、載っているはずもない。当然だ。彼女の才能は、この俺自身が潰したのだから!それでも、それでも彼女に、活躍していて欲しいと思うのは、あまりにも身勝手だと思う。最早、自己嫌悪を通り越して自分自身に殺意すら生まれる。俺は、俺が憎い。俺を殺してやりたい。心の中のもう一人の誰かが、俺に「死ね」と声をかける。「死ね」という声が渦巻く。
 「死ね」「死ね」「死んでしまえ」「おまえなんか死ね」
 しかし、俺は絶対に死ぬことはできない。約束が、あるから。

 自嘲する俺に彼女は言った。
「そんなことない。君は、とってもすごい人なんだよ」
「だから、泣かないで。そんなに自分をいじめても、何にもならないよ。ね?」
「あたしができることなら、何でもするから……」
「だから、お願い。もう死ぬなんて言わないで。約束して。」
「ねっ、だから……」
 顔を上げた俺に、静かな口づけ。
 彼女はどうして、こんなに優しいことが言える?
 彼女はどうして、こんなに素直なことができる?
 彼女はどうして、こんなに強く輝いていられる?
 彼女はどうして…俺を愛していたのだろう?

「あいしてる」「ありがとう」「ごめんね」君に言えなかった言葉のカケラ。俺は君の心よりも自分のプライドの方が大事だった。そして、しだいに輝きを増していく君がまぶしすぎてまっすぐに見つめられなくなったのは、いつの頃だっけ?

 おぼつかない足取りで家路についた俺は、やはり体内にアルコールを摂取していた。ドアを開け、あかりをつける。そこに彼女の姿はない。彼女がいない部屋の風景には、まだ慣れない。着替えもそこそこに、二日酔いの薬を水無しでごくりと飲み込んで、ベッドにもぐり込んだ。もちろんそこにも、彼女はいない。安物の毛布を頭からかぶる。酒のせいもあってか、しだいに俺はうつらうつらとしてきた。彼女が居るのは、おれの…ゆめのなか…だけなのだ…







「別れよう」
「えっ…なんで…そんな…突然」
「このままいたら互いのためにならないと思う」
 それは、陳腐な別れの定石。しかしそれはどこまでも真実だった。二人が手遅れだとわかっていても。
「そう…なんだ…別に…そんなことないと思うケド…?」
 無理な微笑み。しかし、哀しい瞳。やめてくれっ!
「それに、おまえが嫌いになった」
 違う。一番嫌いなのはこの俺だ!
 彼女はしばらくうつむいていたが、パッと顔を上げると、こういった。
「ん…じゃ…しょうがないよね…んっ…じゃ、あたし、こ、ここを、出、て、行く、から」
 彼女の涙声が胸にいたい。思わず顔を背ける。
「それじゃあ…俺はしばらく出かけてくる…その間に荷物をまとめておけよ」
 荷物なんか彼女にはこれっぽっちもなかった。ただ、俺はとにかく外へ行って、このイヤな気分を何とかしたかった。それに、もうこれ以上彼女を見ていられなかった。行く宛もなく、自転車をとばす。……彼女には本当に行く宛がないというのに!やるせなさ、やりきれなさ、いろんな思いが俺の体にまとわりつく。俺はそれから逃れるように、一心不乱にペダルをこぐ。さながらその様、修羅のごとく。いや、道化師のごとく。
 30分後、アパートにもどってくると、すでに彼女はいなかった。かわりに紙が一枚、テーブルの上に置いてあった。そこには、よれよれの字で、「ごめんね。でも、……」
 後半部分は消しゴムで消されていた。
 その晩はずっと水道の水を眺めていた。

「ねぇ、あたしにあれができるかなぁ?」
「無理だろ、やめとけよ」
「だーめーだーよ、始める前からそんな気持ちでいちゃあ!大丈夫だよ、何事も信じることが大切なんだから」
「そんなもんか?」
「そんなもんなの!」

俺は何にも信じることができなかった!
君だけが真実であったというのに。

そして俺は眠る
狂うことさえ許されない平穏無事な日々の中で
 
――了――

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