盤上の手乗り姫


「これで終わり――だな」
 その言葉は、全ての終わりを意味していた。
 完敗だった。最早、手も足も出なかった。
 どんな儀性も厭わなかった。使えないと分ると容赦なく切り捨てた。大事の為の小事と割り切ったはずだった――
 しかし、結果は散々なものだった。
 相手は俺の手の内を全て読みきった挙句に、いとも簡単に――鼻歌交じりにその裏をかいた。
 俺の軍勢は、彼の一挙一動に恐怖し、破れ、そして下っていった――
 結局、俺は彼の掌の上で遊んでいたに過ぎなかったのだ。
 俺が自分の軍の優勢に勢いづき、或いは劣勢に戦いていた時、彼はただ淡々と俺の喉笛を噛み千切ることしか考えていなかったのだ。
 将として、この器の違いは余りにも大きい。
 だが、それに気づいた時には何もかも遅かった。何よりも、遅すぎた。
 退路は絶たれた。我が陣に残る手勢も数えるほど――加勢も望めない。
 敗軍の将として、これほどお似合いな状況もそうそう無いだろう――自嘲めいた笑みすら浮かんでくる。
 最後の一手が放たれる。俺の喉笛を食いちぎるのは、かつて俺の軍勢で右腕として働いていたはずの存在だった。
 彼すらも、敵の陣営に下るほどに、自分は無能だったというわけだ。
 敗北の時が近い。完膚なきまでの敗北が――今、もたらされる。


「詰――だな」
 ぱしり、と音を立てて盤上に『桂馬』の駒がさされた。
「むぅ……」
 最早、俺には唸り声を上げることしか出来なかった。
 この一手をもって、『王将』は完全にその退路を断たれた。最早どこに逃げたところで、その先に待つのは敗北だけだ。
「やぁ、やっぱりマスターは強いなぁ」
 自らの敗北を宣言しながら、やれやれとため息を一つ。
「そうかね?」
 対して、相手は特に感慨も無い様子でちらと顔を上げただけだった。
「強いよー。さっきから何度もやってるけど、俺、一度も勝ってないじゃん?」
「俺くらいの奴なら、そこら辺にごまんといるだろ?」
「またまた、謙遜しちゃって」
 俺の言葉にも、やっぱり何の反応も見せる事無く、彼は蛇口を捻って流しのカップを洗い始めた。
 事の発端は今から3時間ほど前に遡る――と言っても、別にたいした事じゃあない。
 気まぐれに押入れの整理をしていたら、将棋盤と駒を一式見つけた。ただ、それだけの事なのさ。
 懐かしさも手伝って、誰かと一局――と思ったのだが、如何せん俺の家には、将棋が出来る奴がいないと来たもんだ。
 だからこうやってわざわざ、行きつけの喫茶店にやってきて、顔なじみのマスターにお相手願ったわけなんだが――
「結果は見事に惨敗……なんだかなぁ」
 こうも見事に負けると、すがすがしくすらなってくるか不思議だ――いや、勿論不本意だけど。
 このまま負け犬で帰るわけにはいかない――リターンマッチ申請だッ!
「ねえねえマスター。もう一局やろう、もう一局」
 蛇口をきゅっと閉めながら、マスターはちらりとこちらを一瞥――あ。ちょっと不満げ。
「たっぷりと相手してやったろう? これ以上は営業妨害だ。営業妨害」
 確かに、営業中の喫茶店のマスターをとっ捕まえて、将棋をさすのは営業妨害かもしれないが――
「俺以外に居ないじゃん、お客?」
 わー、怖い! そんな目で見ないで!? 俺が悪かったからさぁッ!?
「……まあ、良いだろう」
 カップを棚に戻しながら、一言。
 いや、それならそんなに怖い目で睨まないで欲しいんだけど……心臓、止まるかと思ったや。やれやれ――
「よ〜し、そいじゃ今度こそ勝つぞ〜」
 盤上の駒をじゃらじゃらとかき混ぜながら、リベンジを誓う俺……リベンジャーと呼んでくれたまえ、ふふふ。
「麻雀じゃないんだから――」
 マスターのツッコミを聞き流しながら、駒をぺちぺちと並べてゆく。
 香車に桂馬。金、銀、王将―ー飛車、角並べて、おかっぱ娘――と。
「……あれ?」
「どうかしたかね?」
「いや。なんかこう――不自然なものが見えたような……マスターも見た?」
「……何を?」
 マスターはきょとんと首を傾げている。
 おかしいなぁ。やっぱ俺の気のせいなのかなぁ……
 そうこうしてるうちにマスターがぱしっと第一手。
「どうした。君の番だぞ?」
 って、うわ!? いつのまに!? こう言うときは普通、負けた方からとか、そういうルールじゃないのッ!?
 まあ、言っても仕方が無いので、俺も第一手目を――いやいや。第一手目こそじっくりと考えなければな。
 最初の一手で全てが決まる……大極的なものの見方をしてこそ、こう偉大なる黄河とかガンジスあたりの流れがだな……
「早くしろよ」
 うわん、注意されちゃったよ、おい。
 しかし第一手目から長考ってのもなんだしなー。よし、ここら辺は直感で、ここら辺の歩を――

もぞもぞもぞもぞ

 うおッ!? なんだ!? 歩が、歩が動いてる!? うそーん!?
 とか、驚いてる間にまるで歩の下から湧き出すように、おかっぱ頭のちっこい女の子登場ー
 いえーい、将棋の精さんですかー? って、ヲイ!?
「マスター!? マスター!? ちょっと、これこれこれこれーッ!?」
「……その歩を打つのか? だったら、早くしてくれ」
 連れない返事ー。って、言うか、これ俺にしか見えてないの? こんなにはっきりとしてるのに?
 歩を頭に乗っけた、着物姿のおかっぱ頭の少女が? うっわ、もしかして俺、ちょっとやばい人!? うひー!?
 とか思ってると、他の駒も、もぞもぞもぞもぞもぞ――こ、これはまさか……
 と、してるうちに全ての駒の下から、おかっぱ頭の着物少女が登場! うっわー、何だこれー……って言うか、ファンタジックにも程があるッ!? 夢見るアリスチャンって歳でも無いだろ、俺ッ!?
 彼女たちの行動を、ちょっとだけ見守ってみる。
 俺の駒の下から出てきた彼女たちは、基本的にみんな同じ構造だった。おかっぱ頭に橙の着物、ただ一つ違うのは、頭にそれぞれ『歩』とか『金』とか将棋の駒を乗せてるくらい。

ぴりぴりー ぴっ

 『王将』の駒を頭に乗っけたおかっぱ少女が、笛で号令一過。
 もぞもぞと好き勝手動いていた『駒』達はぴしっと、直立不動――おお。ちょっと見てて壮観。

ぴりりぴー ぴっ

 『王将』が相手陣営を指差す。
 相手陣営――つまり、マスターの陣営だ。いや、まさか、そんな――ちょっとッ!?
 俺の祈りもむなしく、マスターの陣営の駒がもぞもぞと動き出した。程なくして、畑で大根が抜けるように、ぽぽんと女の子が生えて来る。
 だが、少しだけ違うのは、こちらの『駒』と違って、マスターの陣営の"彼女たち"は皆が皆、赤い着物だって事だ。
 それから髪も長くて、にこにこと笑ってる。

ぴりりりー ぴっ

 マスター側の『玉将』が号令一過。すると、赤い着物の『駒』たちもぴたりと止まると、こっちの駒を省みた。
 おお。なんか一触即発って感じだなぁ。

ぴりりりり〜〜

 『王将』が長い長い笛を吹いた。両陣営の『駒』達が腰をぐっと屈めた。

ぴ〜〜〜〜〜ッ!!

 『玉将』が受けるように大きく、一吹き。
 それを合図に、戦いの火蓋が切って落とされた。
 『歩』達が一気に駆け出し、盤の中央あたりでぽこぺんぽこぺんと、どつき合い始める。
 うおおお〜〜ッ!? すげぇ!? ラストサムライだ、王の帰還だ、ミッドウェー海戦だッ!?
「って、言うかマスターッ!! これ、これえええええええええッ!?」
 とか、感動してる場合じゃねぇって! なんだよ、これ!? どういう妖怪変化だよッ!?
 俺はいつの間にか、こっちに背中を向けて棚の整理を始めていたマスターを呼ぶ。
 ちょとマスター大変ですよー!
「……何が?」
 振り返ったマスター、阿鼻叫喚の盤上をちらりと見て……
「なんだ、一手打つのに随分と時間をかけたんだな?」
 そうともマスター! 俺はたった一手を打つ為に全身全霊を――あれ?
 ふと盤上に視線を下ろす。するとそこには、何事もなかったかのように、将棋盤と駒。
 あれ? あれれ? 何ですか? 俺の見たアレは幻影ですか? いやいや。そんな筈はえーと――
「いやいや。そうじゃないんだマスター! この駒の裏に! 裏に――」
 駒をずばっとひっくり返すも、そこには何もないわけで――
「君……大丈夫か?」
 マスターにちょっと、可哀想なものを見るような目で見られた俺でした――うわぁん。

―了―