ブラック林檎さん

『伏龍編』





ブラック林檎さん一閃

 ブラック林檎さんは、壁に張りつけた一枚の写真を睨みつけていました。
 にっこりと微笑みを浮かべた林檎さんの写真です。
 忌々しい笑顔です。まるで、全てを見透かすかのような――実際はそんなことはないのですが――嘲笑です。
 ブラック林檎さんは、前回の失態を思い浮かべ拳を握り締めました。
 まさか、敵に情けをかけられるとは――戦士として失格です。脆弱な自分が情けないです。
 しかしブラック林檎さんは不屈の人。一度や二度の失敗では諦めません。
 決意も新たに「打倒、林檎さん」のスローガンを胸に刻み付けます。
 次こそは。そう、次こそは――
 瞬間、ブラック林檎さんの右手が閃きました。

 しゅっ

 空気を切る音と共に、一本のダーツが突き刺さります。
 ブラック林檎さんはゆっくりと壁に歩み寄りました。
 林檎さんの写真に一瞥をくれ、にやりと不敵な笑みを浮かべ――その横の壁に突き刺さったダーツをよいしょを引き抜きました。
 いそいそと元の位置まで戻ると、こほんと咳払い。
 再度、狙いを定めます。

 しゅっ
 
 かつん

 今度は壁にすらささる事無く、地面にころりと転がります。
 ブラック林檎さんは疾風にも似た勢いで、ダーツの元に走り寄ると何事も無かったかのようにダーツを拾い上げました。
 今のも無しです。練習です。三度目の正直です。
 すっかり当初の目的を忘れたブラック林檎さん、大またでのっしのっしと元の位置に戻ります。
 そして、ダーツを構え――
 少しだけ前に出てみました。念の為、あくまで念の為です。
 自信が無いとかそう言うわけではありません。
 何故ならブラック林檎さんは古来から伝わる必殺の暗殺術『暗黒陀亜痛術(ぶらっくだあつじゅつ)』の免許皆伝だからです。
 『暗黒陀亜痛術』は中国三千年の歴史を誇る、恐ろしき古代ダーツ術です。よくわかりませんが、今、そう決まりました。
 嗚呼、なんと恐ろしい事でしょう。そのような暗黒武術を極めたブラック林檎さんがダーツを外すわけありません。
 ちなみに余談ですが、ブラック林檎さんはいつのまにか、壁から四十五センチの場所まで近づいたりしていました。
 ブラック林檎さんの瞳に、鋭い光が宿ります。狩猟者の瞳です。
 いまや、ブラック林檎さんは、人間と言う矮小な枠を捨て去り、自然と一体化し、内なる小宇宙を燃焼させて、オーラの力が恕等の如く云々かんぬん――

 しゅっ

 とにかく、林檎さんはダーツを放ちました。一筋の光を放ちながらダーツは一直線に、

 かつん

 全く見当違いの方向に飛び、壁に弾かれました。
 跳ね返ったダーツは優雅な弧を描き――

 さくっ

 次の瞬間には、ブラック林檎さんの足からダーツが生えていました。
 その様を、きょとんと見下ろすブラック林檎さん。
 そのまま沈黙が、やたら無闇と続きに続き――
 五分後。ブラック林檎さんは足を押さえながらごろごろと無様に地面を転がっていました。
 壁にはにっこり林檎さん。その顔が悪魔の笑みに見えたとか見えなかったとか――後の、ブラック林檎さんの談です。




ブラック林檎さん潜伏

 消毒液がぴりりと染みて、ブラック林檎さんは思わず泣きそうになってしまいます。
 しかし、そこは戦士であるブラック林檎さん。戦場で流す涙は持ち合わせていません。そんなものは十五年前のあの日、とっくに無くしてしまったからです。
 よくわかりませんが、本人の談です。
 とにかくブラック林檎さんは絆創膏を取り出してぺたりと張ると、自らを鼓舞させながらすくりと立ち上がりました――が、ぴりっと痛みがじんわり広がり、思わずその場にうずくまってしまいます。
 違います。泣いてなんていません。これは汁です。目汁です。涙なんて俗物の醜い感情の発露です。完全無欠戦闘マシーンのブラック林檎さんには不要なものです。
 自分に言い聞かせると、着物の裾でぐしぐしと顔を拭いながら立ち上がります。目が赤くなっていますが気にしてはいけません。
 しかし――と、ブラック林檎さんは壁の方に視線を向けました。
 そこには、あの禍々しい――と、本人は思って疑わない――笑みを浮かべた林檎さんの写真が貼り付けられていました。
 敵ながら流石は林檎さんです。写真一枚でここまで追い詰められるとは思っていませんでした。しかし、それでこそ倒し甲斐があると言うもの。
 戦慄を感じながらも、ブラック林檎さんの胸には闘志が沸々と湧き上がってきます。
 嗚呼。恐るべきは、ブラック林檎さんの身体に流れる戦士としての血潮。そして、その胸に秘められたる鋼の如き魂です。
 ですがしかし、前回は苦い敗北を喫してしまいました。戦士としてあるまじき無様さです。
 しかし、敗北を糧にしてでも前に突き進むのがブラック林檎さんのポリシー。それが戦士としての彼女の誇りです。
 先ずはこの足の怪我を――戦闘とは一切関係ないような気もしますが――一刻も早く治すことが急務です。
 その為に――
 ブラック林檎さんは、今、自分が居る室内を省みました。

『ぶらっくひみつきち』

 それが彼女の城の名前です。
 この秘密基地には、林檎さんとの戦う為のあらゆるものが備えてあります。
 地獄の特訓施設、強力秘密兵器、フローリングが三部屋、和室は一部屋、バス、トイレ、キッチン付きで衛星放送も受信可能です。
 この秘密基地さえあれば、ブラック林檎さんの勝利は約束されたようなものです。よくわかりませんがそうなのです。
 ブラック林檎さんは勝利のガッツポーズを取りました。今すぐ、祝杯をあげたい気分です。でもお酒は飲めないので、多分、養命酒になりそうです。

 ぴんぽ〜ん

 そんな時、秘密基地に来客を告げるチャイムの音が鳴り響きました。一体、誰でしょう。

 ぴんぽんぴんぽんぴんぽ〜ん

 乱れ打ちです。とりあえずブラック林檎さんは、とてとてと玄関に向かいました。

 ぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽ〜〜〜

 この連射――一体、誰でしょう。ブラック林檎さんの脳裏に一人の人物が浮かび上がります。
 かつて、一秒間に十六回のボタン連射を可能とした神の腕をもつ――

 がちゃっ

 身構える暇も無く、ドアが開け放たれました。
 そして扉の向こうからは――

 こんにちわブラック林檎さん。
 ぺこりと頭を下げる林檎さんの姿。
 まさか。まさかこんな事が――嗚呼。運命とは実に皮肉! 運命とは実に残酷!
 しかし、歯車は――またも回り始めてしまったのです。
 遊びにきましたよ。と、笑う林檎さんを無視して、ブラック林檎さんは拳を引き上げました。

 ちなみに『ぶらっくひみつきち』が林檎さんの家から三分の場所にあるのは、また別のお話です。






ブラック林檎さん策謀

 おじゃまします、ブラック林檎さん。
 にっこりと笑顔を浮かべながら、家にあがる林檎さん。
 その林檎さんと距離を取るように、ブラック林檎さんは油断無く数歩下がりました。
 林檎さんの有効射程距離はそんなに広くありません。ここは、遠距離型であるブラック林檎さんの方が有利です。しかし、屋内での戦闘となると、ブラック林檎さんの方が若干不利になります。
 等と、よくわからない分析を終えた結果、二人の戦力は拮抗していると判断します。
 しかしここは、ブラック林檎さんの牙城『ぶらっくひみつきち』――地の利はブラック林檎さんにあります。
 この『ぶらっくひみつきち』には林檎さんに対抗する為のあらゆる設備が揃っています。
 そして、その中には無論、この場所で林檎さんと戦う為の設備も充実しているのです。
 それはそう、すなわち――罠。
 卑怯とは言いません。戦いに備えるのは戦士としてのたしなみ。正面からぶつかり合うだけが戦いでは無いのです。
 そして林檎さんは、この血に飢えた残虐の園に自ら足を踏み入れてしまったのです。
 ああ、愚かなり林檎さん。今日があなたの命日です。墓には「我が生涯のライバルここに眠る」と彫ってあげましょう。それが戦士としてのせめてもの情けです。
 そんなブラック林檎さんの企みを知る事無く、林檎さんはとてとてと『ぶらっくひみつきち』の中を見て回ることにしました。
 『ぶらっくひみつきち』は玄関を上がると廊下が真っ直ぐに伸びていて、左右に二つずつ扉があります。
 林檎さんはどの部屋から見て回ろうかと、あっちをきょろきょろこっちをきょろきょろ。
 そして、それはブラック林檎さんにとっては絶好のチャンスでありました。
 そうです。第一の罠はこの廊下に仕掛けられていたのです。嗚呼、なんと狡猾なことでしょう。
 きょろきょろとあたりを見回す林檎さんに向けて、策士の笑みを浮かべつつ、ブラック林檎さんは天上からこれ見よがしに下がっている紐に手をかけました。
 さようなら、林檎さん。その名前、後世まで語り伝えましょう――
 感慨すら感じながら、ブラック林檎さんはくいっと綱を引きました。
 がきん。と、音を立て廊下の突き当りが開きました。その奥からは、現われたのは大砲の如きピッチングマシン。砲塔を林檎さんに向け、ぐおんぐおんと唸りを上げています。
 林檎さんは手前左の扉の前でドアノブをがちゃがちゃしています。ピッチングマシンには気づいてもいません。

 ぼしゅん!

 ピッチングマシンが轟音をあげます。射出された白球は一筋のラインと化し、林檎さんに向けて――
 ブラック林檎さんの目が点になります。そこには林檎さんはいませんでした。扉を押し開けて、部屋の中に入ってしまったのです。
 ピッチングマシーンと林檎さんとブラック林檎さんは、同じ直線状にいました。
 しかし、その中から林檎さんだけが消えてしまいました。そこから導き出される答えは、ただ一つです――

 ぱごんッ!!

 やたらと鈍く生々しい音を立てて、白球がブラック林檎さんの顎を捉えたのは、次の瞬間でありました。
 遠のく意識の中で、ブラック林檎さんは自分を不思議そうに見下ろす林檎さんの顔を見たような気がしたそうです。


―続く―