ブラック林檎さん

『激闘編』




ブラック林檎さん対決

 二人の戦いは静寂から始まりました。
 拳をぐっと握り、心臓の位置まで上げ、身体を相手に対し斜めに開きます。
 所謂、一般的なファイティングポーズと言う奴です。
 対して林檎さんはまったくの自然体。いっそ、隙だらけと言っても良いくらいの構えです。
 しかしそこは百戦錬磨のブラック林檎さん。その手にはのりません。
 一見隙だらけの林檎さん。しかし、不用意にしかければ痛い目を見るのは自分の方です。
 相手の一挙一動を、事細かに観察します。
 棒立ちとも言える足の開き――油断してはいけません。この足の置き方こそ、実は相手のどのような動きにも対応できるのです。良く分かりませんが、きっとそうに違いありません。
 胸の前で組まれた細い腕――一見、不用意に見える、しかしこれとて、どのような隠し玉が飛んでくるか分かったものではありあません。
 そして、にこにこと全く何も考えていなさそうな、満面の笑顔――敵意など微塵も感じないそのあけっぴろげなまでの笑顔の奥に、果たしていかなる獣が……
 ………。
 ブラック林檎さんは、ふと思いたち、ファイティングポーズを解きました。
 それを見て林檎さんは、にっこり笑ったまま、首を傾げました。
 ブラック林檎さんは尋ねます。今の状況が分かっているの? と。
 無論、林檎さんはにっこりと笑ったまま、ぶんぶんと首を横に振りました。
 ブラック林檎さんは、その様子をきょとんと眺めて居ましたが、やがていたたまれなくなって、その場で地団太を踏みしめ始めました。
 どんどんどんどん。
 とても悔しそうです。
 それを見ていた林檎さん。なんだかとても楽しそうだな。と思い、ブラック林檎さんの地団太を真似する事にしました。
 どんどんどんどん。
 何だかとても楽しそうです。
 それを見たブラック林檎さん。より一層、どんどんどん。
 それを見た林檎さん。負けじとこちらも、どんどんどん。
 どんどんどんどん。
 どんどんどんどん。
 それを傍目から見ていた蜜柑さん。なんだか、一人だけ仲間外れ。面白くありません。
 どんどんどんどん。
 どんどんどんどん。
 恨めしそうな蜜柑さんの視線を尻目に、二人の地団太合戦は、今まさに最骨頂を迎えようとしていました。



ブラック林檎さん豪拳

 ブラック林檎さんの頬を一筋の汗が流れました。
 油断無く見据える視線の先では、林檎さんが不敵な――少なくとも、ブラック林檎さんにはそう見えるのです――笑みを浮かべています。
 おお、危ない。いつのまにか相手のペースに乗せられていたようです。
 これがもし、本気の状態だったら、ブラック林檎さんは一瞬にして、地面にはいつくばっていたでしょう。
 げに恐ろしきは林檎さん。流石はブラック林檎さんの生涯のライバルです。誰が言ったか知りませんが、ライバルなのです。
 しかし、次は引っかかりません。何故なら、ブラック林檎さんに一度見た技は通じないのです。嗚呼、何と言う天賦の才。
 まさにブラック林檎さんこそ、生まれながらにしての戦士なのです。
 ブラック林檎さんは――こちらは間違い無く――不敵な笑みを浮かべるとぐっと身を屈めました。
 その姿は、まさに獲物を狙う猛獣のそれです。
 一瞬の静寂が過ぎ、そして次の瞬間。ブラック林檎さんは飛び出しました。
 つま先から頭頂部まで、まるで勢い良くバネが伸びるかのように、黒衣の裾を翼の如くはためかせながら、ブラック林檎さんは一直線に林檎さんに向かいます。
 ワイヤーアクションもびっくりです。
 視界の中の林檎さんの姿が、どんどんと大きくなっていきます。
 獲った……ッ!
 ブラック林檎さんは胸中でニヒルに呟きます。この必殺の一撃は、間違い無く哀れな犠牲者を骸へと変える事でしょう。
 ただし、当れば――の話です。
 林檎さんまでの距離が後ほんの数歩まで近づき、手を伸ばせば届きそうな距離。しかし、悲劇は起こりました。
 林檎さんに到達する最後の一歩。すべてを決する最後の一歩。その一歩を――ブラック林檎さんは壮大に着物の裾を踏みつけました。
 ドリフのコントでも、こんな瞬間はそうそう無い事でしょう。それほど見事なタイミングであり、勢いであり、それはまるで美しい一枚絵のようでした。
 そして結果として、ブラック林檎さんの進行ベクトルは大きく歪み、地面に顔面から容赦なく突っ込む形となりました。受身を取っている暇など、勿論ありません。文字通り、容赦など無いのです。

ずざざざざざざざざざざざざッ!!

 しかも、人間弾丸と化していたブラック林檎さんの身体は、そのまま地面を荒々しく削り取りながら、近くに積んであった空のダンボール箱を薙倒しましてから止まりました。
 もし、これが香港のカンフー映画なら、道行く人が慌しく逃げ惑っていた事でしょう。
 そして地面にトーテムポールに聳え立つブラック林檎さんの身体は、風に吹かれぱたりと倒れます。
 その様子をのほほんと眺めながら、林檎さんは何が起ったのか分からずに、いつも通りにこにこと笑っています。
 そして、すっかり蚊帳の外の蜜柑さんは、つまらなさそうに大きな欠伸を一つつくのでした。



ブラック林檎さん決着

 蜜柑さんが消毒を終えたブラック林檎さんの鼻っ柱にばんそうこうを張りつけると、ブラック林檎さんは痛みにびくりと身を竦めました。
 ぎゅっと閉じたまぶたの間から、涙がぼろぼろとこぼれてきます。と言うか、あれだけ派手な転倒をしておいて、どうして鼻先をすりむいただけで済むのでしょうか。
 そんなブラック林檎さんを慰めるように、林檎さんはブラック林檎さんを撫でてあげようと手を差し出します。
 しかし、ブラック林檎さんはその手を無下に払ってしまいました。
 当たり前です。どれだけ互いを強敵(とも)と呼ぼうと、所詮はどちらかが滅ばなければいけない――それが二人の関係なのです。多分。
 林檎さんは払われた手を見つめると、悲しそうな目でブラック林檎さんを見つめました。
 どうして仲良く出来ないんですか?
 林檎さんの目は如実に語っています。
 すがる様なその瞳。ブラック林檎さんは振り払うようにぶんぶんと首を横に振ると、カンフー映画のようなオーバーアクションを交えてその場から飛び置きました。
 空中で見事に姿勢を入れ替え、そのまま――ぐぎりと嫌な音を立て、地面の上でブラック林檎さんの左の足首が真横を向いていました。それはそれは痛そうな光景です。
 ブラック林檎さんは、思わずその場でごろごろと転がりながら身悶えました。
 林檎さんが咄嗟に駆け寄ろうとします。
 しかし、ブラック林檎さんはばっと手をかざすと、林檎さんを制しました。これ以上、敵に情けを受けるわけにはいかないからです。
 こぼれそうになる涙もぐっと堪えます。何故ならブラック林檎さんは戦士だからです。
 しかしこの足の怪我――どうやらこれ以上戦うのは不可能のようです。
 ブラック林檎さんは状況を冷静に見極めると、この場は退く事にしました。実に適切な判断です。まさに一流の戦士が成せる技といえましょう。
 足の痛みを堪えながら、それでもブラック林檎さんは不敵に微笑みます。無駄にわめかず無駄に吼えず、ただ一つの笑みだけで全てを語る事、それが去り際の美学。悪の華なのです。
 はためく黒い振袖に、踊る『あくぎゃくひどう』の白文字。ブラック林檎さんは威風堂々と悪を演じます。
 次こそは……必ず!
 胸中で噛み締めながら、ブラック林檎さんは振り返る事無くその場を後にしました。
 後には、林檎さんと蜜柑さんが残されました。
 林檎さんは尋ねます。
 ブラック林檎さんの怪我は大丈夫でしょうか。そして、次会う時は仲良く出来るでしょうか。
 蜜柑さんは――何も答えませんでした。
 何故なら余りにも暇だった蜜柑さんは、立ったまま眠っていたからです。
 うつらうつらと揺れる頭を林檎さんがぺしんと叩くと、蜜柑さんの頭ががくんと一際大きく揺れ、蜜柑さんはびっくりして、はっと目を覚ましました。

―続く―