帰路妙談


 時刻午前零時ちょうどに、列車は停止した。
 開いたドアから足を出すと、足下に虚空の闇が広がっていた。
 ホームまで1mほど隙間がある。後ろの乗客に押されて、私はその闇に飲み込まれそうになった。
 階段はこぼされたビールに濡れており、私は足を何度も踏み外しそうになった。
 改札を通ると、眠たげな目をした駅員が、私の手に鋏を入れようとした。
 駅を出ると、しゃがんで煙草を吸っていた少年達が、私をきつく睨みすえる。
 彼らが口笛を吹き、立ち上がったのを背後に感じながら、私は歩いた。
 自転車置き場に歩み寄ると、サドルが転がっている。
 私の自転車のものだった。
 サドルを取り付け、出発しようとすると、タイヤの近くに置かれていた大きな石に躓いた。
 バランスを崩した私は、大きな音を立てて横に倒れる。
 倒れ込んだ先では、側頭部の近くにも大きな石が置かれていた。
 ズボンに付いた砂を払おうとすると、そこに混じったガラス片がキラキラと輝いていた。
 コンビニの入り口からは、どこかそわそわした雰囲気の外国人が数人出てきた。
 その手は大きなデイバッグを大事そうに抱えている。
 私を見た彼らは驚いていた。
 角を曲がると、道路に向けて大きくひしゃげた標識に衝突しそうになった。
 ブレーキチューブはいつの間にか断ち切られており、私の靴がアスファルトを削った。
 道路を横切ろうとすると、近くの酒場の二階からけたたましい物音が響いてきた。
 窓から何かが飛んできて、ちょうど私のズボンのポケットに収まる。
 鋭利なナイフだった。
 民家の近くに差し掛かると、突然犬が激しく吠え立てはじめた。
 私が近づくとその声はますます大きくなった。
 やがて、自分を縛める鎖を、地面に固定している木の杭ごと引き抜き、彼は自由の身となった。
 彼の目は私を見据えている。
 私は黙ってペダルを漕いだ。
 街灯は突然に煙を噴いて割れ、破片が私の頭上に降り注いだ。
 中古車屋の出入り口には、一台の車が置かれていた。
 その車は私が脇を通り過ぎようとすると、ライトもつけずに動き出した。
 交差点を曲がると、深夜だというのに白衣の男達がなにか大きな瓶を抱えて歩いている。
 そのうち一人が蹴躓き、瓶の中身を私の自転車の籠にこぼした。
 金属製の籠はいやな匂いと共にじゅうじゅうと音を立てている。
 男達は何も言わず隣の林の中に消えていった。
 橋を渡ると、風に大きく揺れ、ふらふらと導かれた欄干は壊れていた。
 ひゅうひゅうと吹きすさぶ風が、私の前髪を跳ね上げた。
 消防署の前を通ると、救急車が音もなく動きだし、私を見ていないかのように急発進した。
 漁業組合の中では、子供達が花火を楽しんでいる。
 甲高い鳴き声を上げて、ロケット花火が数本こちらに飛んできた。
 農道に入る。
 途端に蛙の声はぴたりと止む。
 逃げ遅れた蛙がいやな音を立てて自転車のタイヤに圧殺され、私はその感触に滑り転げそうになる。
 転びそうになった先には、投げ捨てられた鍬が月明かりに輝いていた。
 左から右の田圃へと跳び続けるイナゴの群は、そこを通る自転車のフレームに何度も衝突した。
 やがて目の前で何者かが私を眺めているのが見えた。
 猫だ。
 闇の中にも白いシャム猫は真っ直ぐ私に飛びかかり、シャツに爪を立てたところで滑り落ちた。
 廃材置き場では高く積まれた木材がゆらゆらと振動し、私が危険を察知する前に落ちてきた。
 籠を掠った木材は、私のタイヤに強い衝撃を与え、地面に転がった。
 農道を抜けると、目の前の細い道路には沢山のトラックが横行している。
 制限速度30km/hの道を、彼らは高速道路にしていた。
 恐る恐る脇をすり抜け、踏切を通ろうとする。
 まだトラックの列は続いていた。時々肘が、トラックの荷台に擦られそうになる。
 機械が壊れていたのだろう、私が通り過ぎた直後に、何の前触れもなく真っ黒い貨物列車が猛スピードで闇を切り裂いた。
 ガシャンと後ろから強烈な音がする。
 金属同士がぶつかり、ひしゃげる音。
 やがてずしんと何かが倒れ、その何かが坂道をごろごろと転がってくる。
 私はペダルを漕ぐ足を速め、測道に入る。
 背後で民家が潰れる音がした。誰かが叫んでいる。
 工事中の測道には、マンホールの穴が沢山開いていた。囲むべき柵はなかった。
 その中心で五歳くらいの少女が鞠をついていた。
 満月の下、彼女は鞠を突き続け、ふと、私の存在に気づいた。
 無邪気に微笑むと、私に鞠を投げつけた。
 間一髪で避ける。
 ドス。鞠を受け止めたコンクリートがへこんでいた。
 近所の民家から、その音を聞いた人々がわらわらと這い出してくる。
 皆、微笑みながら、手に手に鎌を持っていた。
 砂利道を突っ切り、家に急ぐ。
 背後に猟銃の鳴り響く音を聞きながら、私は玄関の戸を開けた。
「おかえりなさい」
 明かりの漏れる台所から、母親が微笑みながら出迎えた。
 私はポケットのナイフを掴むと、黙ってその脇腹を刺した。








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