帰路奇談


 時刻午前零時ちょうどに、列車は停止した。
 ギギギギギギギギギギギギとブレーキは軋み、停車位置を超過したのか、開かれた扉の先には何もなかった。
 隣の扉からホームに降りた。降車したのは私だけだった。
 ホームに設置されているゴミ箱からは中身が溢れ出ていた。
 改札に駅員は居らず、形式的に定期を取り出して通過した。
 待合室にはくたびれたサラリーマンが座っていた。彼は何故か女性用のハンドバッグを脇に抱えていた。
 時折その中から口紅を取り出しては、キャップを抜き、また締めて、その繰り返しを延々続けていた。
 私の存在に気づくと、彼は立ち上がった。私は無視して出口へ向かった。
 ロッカーの中から赤ん坊の泣き声のようなものが聞こえた。段々とその声は小さくなっていき、ついには途絶えた。
 駅を出ると、一斉に停まっていたタクシーが発車した。
 コンクリートの地面に、投げ捨てられたアイスクリームがその残滓を晒していた。
 自転車置き場では、私の自転車を除いて全てのサドルが取り外されていた。
 掛け忘れたはずの鍵は掛かっていた。
 跨るとサドルは濡れていた。雨が降った記憶はなかった。
 見ると籠の中にピンクチラシと共に獄と一文字毛筆で書かれた紙切れが入っていた。
 コンビニの前を通ると中にいた客が一斉にこちらを見た。
 その目は白く濁って見えた。
 踏切を横切る。作業服姿の男達が何かを集めていた。
 右手が見つからない、そんな声が耳に届く。
 目の前に横たわる道路に、自動車の気配はなかった。そのまま突っ切ると、危ないじゃないかと怒声が飛んだ。
 見回すと近くの酒場、そこの二階の窓から中年の男が憤慨した面もちでこちらを睨んでいた。
 男は上半身裸だった。
 やがて悲しげないななきが聞こえた。
 電話ボックスの中で、鎖に繋がれた犬が閉じこめられていた。
 ぐるぐるぐるぐると犬は回りだした。鎖が首に絡みつくのも気にならないようだった。
 街灯は明滅し、私が通過するころには完全に沈黙した。
 せかされるようにペダルを漕ぐ。ガキリガキリとチェーンは唸った。
 夜の中古自動車屋。前を通るとネオンに照らされた十年前の車が三万円。
 その隣で最新の車が二万円だった。バンパーが少し窪んでいた。
 交差点を曲がる。遠くに見える総合病院の明かりは、最上階の一室を残して全て消えていた。
 橋を渡ると風もないのにギシギシと揺れた。
 道路を走るのは救急車だけだった。何故かサイレンは鳴っていなかった。
 顔を上げると漁業組合の前だった。幽かに橙色の灯りが見えた。
 ぱちぱち、ぱちぱち。積み上げられた網の影で、何者かがたき火をしていた。
 ぱちぱちと言う音だけが耳に残って離れない。
 衆議院議員選挙のポスターは、全て乱暴に引き剥がされていた。
 代わりに貼られていたのは、二十年前の総理の写真だった。
 農道に入る。
 街灯も届かない闇の中。蛙の声は私を迎えるファンファーレ。
 用水路の音だけが響き、見上げる月が真っ赤だった。
 案山子はくるくると回り、きぃきぃと悲しく嗚咽を漏らした。
 泥にタイヤを取られそうになりつつ、急いで農道を抜けた。
 突然、目の前に光る小さな目が現れた。
 ブレーキを掛けた。相手は私をじっと見つめていた。猫だ。
 猫はにゃぁと一声上げると近くの茂みに飛び込んだ。
 ただ、その猫には、右前足が無かったような気がした。
 毎日見かける地蔵の首は砕かれていた。供物の団子は真新しかった。
 道路に出ると、レッカー車が壊れた車を載せたまま、道端に停まっていた。
 踏切を通過しようとすると、警報機が壊れていたのか、何の前触れもなく遮断機が降りてきた。
 長い長い貨物列車が、ごうごうと騒音を奏でながら過ぎ去ってゆく。
 遮断機が上がると、向こう側に先ほどまでいなかった老婆の姿。
 白髪を振り乱し、杖を突いた彼女は、すれ違いざまになにやらブツブツと念仏を唱えていた。
 近所の廃工場からは、口笛が聞こえてきた。曲名は、エリーゼのために。
 住宅街に辿り着く。歩道の真ん中で、五歳くらいの少女が、真夜中だと言うのに一心に鞠をついていた。
 ベルを鳴らしても彼女は鞠つきを止めようとせず、私は自転車から降り、ゆるゆるとその横を通った。
 隣家の明かりは全て消えていた。だが、時折がしゃーんがしゃーんと食器類が割れたような甲高い音が響いた。
 ようやく自宅に到着した。
 玄関を開ける。鍵は掛かっていなかった。
 おかえりなさい、と暗闇から届いた母親の声は、今朝聞いたものと違っていた。
 二階から誰かが降りてきた。その手には濡れた包丁が握られている。








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