【水瀬家 日曜日】
水瀬家リビング。名雪を部活に送り出し、家事もあらかた終わらせて、時間を持て余していた秋子は、ソファーに座って週刊誌を読んでいた。
何も無い穏やかな時間。時計の秒針が時を刻む音に混じって、時々ページをめくる音だけが周囲に響く。
優雅とも、怠惰とも言えるその単調な時の流れは、余りにもありふれていながら、実は誰もが望んで止まない瞬間に他ならない。
穏やかに照りつける太陽の光と、暖かな風に乗った若葉の香は、いつしか秋子をまどろみの世界へと誘っていった。
とんとんとん…
どこか遠くで、階段を下りる足音がする。
がちゃ
リビングに続く扉を開ける音。
――…ふわぁ…おはようございます…
起き抜けなのだろうか、何処となく気だるげな声。
――…あれ?
声の主は少しだけ拍子抜けした。
――…秋子…さん?
秋子は名前を呼ばれた気がした。しかし、気にした風も無く眠りつづける。
――…ああ、寝てるのか
声の主がくすくすと笑う。
――…しかし、こんな風に座ったままで寝ていて、肩とかこらないのかな?
妙に真面目な調子の呟き。
――…………………
そして、沈黙。
ふにふに
不意に頬をつつかれる。こそばゆい。
ふにふにふに
「うぅ〜」
思わず声を上げてしまう。
――あ、反応した
声の主は嬉しそうに笑うと、またつついてきた。
ふにふにふにふに
「うぅ〜、やめてくださぁい…」
そう言いながら、秋子はゆっくりと瞼を上げる。
そして、自分の隣にいる人物と目が合う。
「おはようございます。秋子さん」
直ぐ隣にいた、にこにこと微笑む祐一と。
思考が、停止する。
「…………」
訳がわからず目を見開いたままで硬直する秋子。
「………?」
きょとんとした表情で秋子を見つめている祐一。
お互い、見詰め合うようにして、時だけが過ぎてゆく。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
それは、まるで昔のサイレント映画のようで、しかし、時計の秒針が時を刻む音だけがやたらと耳についた。
「………ゆ」
やがて、秋子が口を開く。
「…祐一さん?」
「はい?」
沈黙。何処か遠くで、ひばりが鳴いている。
「あの…その…」
「はい」
すっかりしどろもどろの秋子。祐一はにこにこしながらそれに応える。
「……もしかして、ずっと見てました?」
「はい」
ぼっ!!
即答する祐一に対して、まさに音が出そうなほど顔を真っ赤に染める秋子。
「寝顔が可愛かったもので、つい…」
何も言えずにあうあうしている秋子に、祐一が照れながらも止めの一撃を放つ。
「…………(ぷしゅー)」
こてん
哀れ秋子は顔から湯気が出そうなほどに真っ赤になってしまい、さらに金魚のように口をパクパクさせたままで、ソファーに倒れこんでしまった。
「!! あ! 秋子さん!?」
慌てて駆け寄って来る祐一の声が、何だか遠くから聞こえたような気がした。
それから30分後、穏やかな春の光に照らされながら、祐一と秋子は二人で商店街を歩いていた。
と言っても、別に買出しに来たわけではない。あれから秋子がオーバーヒートから立ち直ったのは良いが、そのときには、それ以前から眠っていたこともあり、既にお昼を大幅に過ぎていた。
それに気付いて、急いで昼食の用意をしようとした秋子だが、祐一に「それなら、外でお昼を食べませんか?」と言われて、思わず了承してしまったのだ。
まあ、その事自体には不満は無い。たまには良い気分転換になると思う。ただ…
「…………」
秋子は黙って自分の左手を見た。祐一の右手にしっかりと握られている左手を…
家を出てから直ぐに握られて、ずっとこうである。不満はない。不満は無いが、かなり恥ずかしい。
しかも、祐一は別段気にした風も無くずんずん歩いてゆく。
此処の商店街には秋子の知合いの奥様方もよく来ると言うのに、もしこの姿を見られたらどう弁解すればいいのだろう…
秋子は最早、顔を真っ赤に染めて俯きながら、黙って祐一の後に続くしかなかった。
そうして、どちらが年上だか分からないような状態で暫く歩いていた秋子だが、不意に何かに気付いたように顔をそっと上げると、自分の手を引いて歩く祐一の姿を上目遣いに盗み見た。
甥であるはずの祐一と、実は血のつながりが無いことを知ったのは最近の事だ。そして、その祐一から直接的ではないにしろ告白されたのも…
返事は今言わなくても良いと言われたとは言え、秋子はそれ以来、祐一と顔を合わせることも儘ならなかった。しかし、祐一が何事も無かったかのように普通に接してくるので、秋子も何とか今までどおりに祐一に接することが出来るようにはなった。しかし、なんと言うか、祐一が以前より積極的にと言うか、叔母甥の関係とは微妙に違う接し方、詰まりは秋子を一人の女性とみなして接してくるせいもあり、秋子としては何とも言えないむず痒い日々を送っているのだ。
祐一の事を嫌いか? と問われれば、無論そんなわけは無い。しかし、異性として好きか? と問われると、微妙な所である。祐一の事は確かに好きだ。しかし、それは祐一が名雪に対して感じる”好き”と同じなのではないだろうか? それは詰まり、家族として好きだと言うことである。しかし、だ。
秋子は祐一に告白された日のことを思い出す。あの日、夜中に酒を飲んでいる場面を秋子に見られたときに祐一が見せた、普段は決して見ることの出来ない、妙に大人びた表情。そして、心の一部が欠けてしまったかのような、どこか空っぽな微笑。あの時、祐一に対して感じた胸の苦しみが、果たして家族に対する感情なのだろうか?
考えたところで、答えは出る筈も無かった。
「あ、着きました。此処です」
それからどれほどの時が流れたのか、秋子は覚えていない。気が付くと、一軒のレストランの前に連れて来られていた。周囲に余り人通りは無く、レストランの向かいに建つ雑貨屋にも覚えが無い。始めてくる場所だったが地面に敷かれたタイルの様式や、街灯の形から此処が商店街であることは間違いなかった。ただ、いつも来ている商店街にこんな場所があったことを、秋子は全く知らなかった。
『れすとらん・せぴあ』
と銘打たれたそのレストランは、白を貴重とした木製外壁の小さな造りで道路に面したテラスがあり、レストランと言うよりは軽食も出す喫茶店といった感じだった。
からんからん
祐一が扉を押すとドアに取りつけられたベルが軽快な音を立てて揺れた。
扉をくぐって店内にざっと目を通す。お昼を過ぎている所為もあるのか、お客は全くいない。板張りの床と壁、地味めの観葉植物。二人用の丸テーブルが椅子とあわせて十セット程。せぴあの内装は外のつくりに相応しくこざっぱりとしたものだった。
「秋子さん。此処に座りましょうか?」
祐一に促されて窓際の席に着く。程なくして、トレイにお冷とメニューを載せたウェイトレスがやって来た。
「俺は、スパゲッティ・ミートソース」
渡されたメニューを特に見ずに応える祐一。結構、此処の常連なのかもしれない。
「私は、シーフード・グラタンを」
秋子は渡されたメニューをざっと見るとシェフのお勧めと書かれたシーフード・グラタンを注文した。ウェイトレスは返されたメニューを受けると笑顔で厨房に消えて行った。
「いいお店ですね」
注文も終わり、料理がくるまで何となく手持ち無沙汰になった秋子は、向かいで窓の外を眺めていた祐一に話し掛けた。
「え? ああ。気に入りました?」
虚を突かれたように祐一。どうやら窓の外に気を取られていたらしい。
「はい。とても…でも、商店街にこんなお店があったなんて知りませんでした」
「あ、そうなんですか?」
意外そうな祐一に秋子は穏やかに微笑みながら頷く。
「はい。いつの間にこんなお店、見つけてたんですか?」
秋子の問い掛けに、祐一は照れたように頭を掻く。
「いやぁ…実はここにきてまだ間もないときに、道に迷ったことがありまして…」
「まあ。じゃあ、その時に?」
祐一は照れ隠しにからからと笑っていた。
「いや…その通りなんですが…まあ、怪我の巧妙ってやつですよ」
「うふふ、本当ですね」
「…そのお陰で、こうして秋子さんと食事が出来るわけだし…」
「え?」
何気ない祐一の一言に、思わず固まってしまう秋子。そして、その言葉の意味を理解すると、顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。言った祐一も頬を仄かに染めて窓の外を眺めていたりする。やはり照れ臭かったらしい。
「…………」
「…………」
妙に気まずい空気が辺りに充満する。
「…え…と」
祐一が何とかこの気まずい空気を払拭しようと口を開く。
「…………」
頬を桜色に染めながら顔を上げる秋子。見つめあう二人の視線が微妙に絡みつく。そして、祐一が今まさに何かを言おうとしたそのとき、
「お待たせしました」
「うわあっ!!」
「きゃあっ!!」
いつから居たのか、トレイにスパゲッティとグラタンを乗せたウェイトレスがそこに居た。
「スパゲッティ・ミートソースのお客様は…」
何事も無かったかのように、淡々と問いかけるウェイトレス。
「…あ、俺です」
内心どきどきしながらも、何とか平静を装って応える祐一の前に湯気を立てるスパゲッティ・ミートソースが置かれ、そして、秋子の前に熱々のシーフード・グラタンが置かれる。
「では、ごゆっくり…」
ウェイトレスは最後に妙に含みのある言い方をすると、奥へと消えていった。
「…え〜と…」
「…………」
後には、どうして良いか分からずに唖然としている祐一と秋子が残された。
どうしようもなく、時間だけが過ぎてゆく。
「…あの、祐一さん?」
「…え、あ、はい?」
あまりにもしどろもどろな様子の祐一に、思わず微笑んでしまう秋子。
「温かいうちに、いただきませんか?」
「…あ、はい。そうですね」
そう言うと、二人はどちらからとも無く微笑みあった。
からんからん
「ふ〜、美味かった〜」
「本当、美味しかった…」
祐一と秋子が店を出た頃には三時近くになっていた。店を出た二人を、暖かな風が包み込む。
「しかし…テラスが改装中だったのは残念だよなぁ…」
祐一が本当に残念そうに呟く。と言うのも、せぴあでは食事後に道路に面したテラスに移って、そこでお茶を飲むことが出来るのだが、そこが現在改装中で使用できなかったかららしい。
「せっかく、あそこで秋子さんとお茶しようと思ったのに…」
そう言って溜息をつく。
「仕方ありませんよ、改装中なんですから…」
秋子の言葉に、祐一はもう一度溜息をついた。
「…そうですよね…まあ、改装が終わったら、また一緒に行けばいいか…」
「え?」
きょとんとする秋子に、祐一は悪戯っぽい笑みを向ける。
「また、来ましょうね? テラスの改修が終わったら…」
そう言って、秋子の手を取る。
「…はい」
これから、考えなければいけないことは沢山ある。超えなければいけない問題も沢山ある。哀しい事も、辛いことも沢山あるだろう。誰かを裏切ってしまうこともあるだろう。傷つき、涙を流す者が必ずいるだろう。
だけど、だけど今だけは…
秋子は頬を朱に染めながらも、祐一の手を優しく握り返した。
「…さて、それじゃあ帰りますか?」
そうして、歩こうとした祐一の手を、くいっと引っ張る。
「あの…祐一さん?」
「? 何ですか?」
「…向かいの、雑貨屋さんに寄って見ませんか?」
秋子が恥ずかしそうに指差した先には、レストランの向かいに建つ、小さな雑貨屋があった。
赤くなって俯く秋子に、祐一は優しく微笑みかける。
「勿論! 今日はとことん秋子さんに付き合いますよ!! さ、行きましょうか」
大声で応える祐一に、ますます顔を真っ赤に染める秋子。
祐一はそんな秋子の手を引きながら、向かいの雑貨屋へと向かう。
結局二人はその日、日が暮れるまでウィンドウショッピングを楽しんだのだった。
「うう…お腹減ったよ…祐一もおかーさんも何処に行ったの?」
そしてその間、部活から帰って来ていた名雪が水瀬家のリビングで、一人憔悴しきっていたと言うのは、また別のお話である…
後書いてGO!GO!
と、言うことで『秋・祐らぶらぶ話』怒涛の第二話!! "時間があるなら…"をお送りいたしました!!
今回のお話のコンセプトは秋子さんと休日デートと言うことで、一話目から少し経った二人を書いてみたんですが…(因みに一話目は大体、2月頃。この話は4月の終わり頃ということになってます)
しかし…祐一よ…いつの間にそんなに大人になった?(笑)
と言うか、これは本当にKanonなのでしょうか? だんだん自信が持てなくなってしまいました…
でも、小生は負けません!! きっと、何時か、それなりにがんばって見せます!!(意味不明)
そうです。がんばれば、何時か、きっと、何とかなるような気がします(後ろ向き)! そうすればきっと自分の人生に誇りをもてるでしょう!! それはつまり…
「我が人生に、一片の悔い無し!!」
そう、その通り。人生に一片の悔いも無く…って、おおうっ!? 何故にこんな所に拳王様が!?
「…………」
ああ! 拳王様が黒王に乗って去られてゆく!! さよ〜なら〜拳王さま〜…って、本当に何しに来たんでしょうね…まあ、そういうことで、またお会いすることもあるでしょう。それ迄、一時的にさよならです。次は、やっぱり夏祭りかな…
でわでわ、その日までごきげんよう!!
精神崩壊気味の蟹葉りずむ
P.S. 温泉編は、何だか知りませんが温存しておいた方がよさそうなので、温存しておきます。
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