カーネーション(後編)
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俺は今、秋子さんの病室にいる。
体中につなげられた管と顔に付けられた無機質な呼吸器が痛々しい。
面会謝絶ではなくなったというものの、
まだまだ予断を許さない状況だ。
遠く、急患が運び込まれる救急車の音が聞こえる。
……
そして
静寂。
隣にいる名雪は何も言葉を発さない。
俺も言葉を発さない。…発せない。
時計の音がちっ、ちっ、と、何事もないように時を刻んでいる。
病院の壁は、白く落ち着いていて、まるで聖者の死を迎えるかのような荘厳な雰囲気…
いや、違う……
信じている。
秋子さんが…
大事な家族が欠けるなんて、そんなことはないはずだ、
と、信じている。
家族が欠ける…?
俺はその言葉に奇妙なとっかかりを覚えた。
頭に不思議な映像が浮かぶ…
金色の髪の元気な少女…
あれ、そんな子、いたっけな…
金色の…狐…
つ…ね…?
…………
あれ?何を考えていたんだ、俺は…?
「お母さん…」
傍らの名雪が絞り出すような声を出す。
その声に、自分を取り戻す。
「大丈夫だ」
俺は、その震える手を強く、強く握ってやる。
バタバタバタ…
「親族の方は!」
「いえ、それが…」
病院の中が騒がしい。
何でも、七年前に運び込まれて意識不明だった少女が、今日息を引き取ったそうだが、
…………
ええと…?
…………
いや
俺には関係のないことだ。
ふ、と、窓の外を見ると、もうすっかり暗くなった空に星が瞬いていた。
綺麗だった。
すると、一瞬、外の世界が真っ白に輝いた気がした。
…何の光だ?
それは本当に一瞬のことで、気がつくと普通の星空に戻っていた。
ひょっとしたら、俺の錯覚であったかも知れない。
いい加減、疲れてるのかな……
そう思って、脱力した瞬間、
「あ…」
「どうした、名雪」
「見て…祐一」
「あ、秋子さん」
意識がないはずの、秋子さんの両目から、
涙が、
涙が、
次々とあふれ出ていた。
「秋子さん…」
「お母さん!お母さん…!」
名雪は、感情のタガがはずれたのか、激しく泣きながら静かに眠る母にめいっぱい顔を近づけた。
こぼれ落ちる雫が混ざりあい、頬を伝ってシーツの上にシミを作る。
その時。
机の上に、誰が持ってきたのかは知らないけど、コップに刺した一輪の花。
お見舞いにはそぐわないけど、その優しい赤は、病院の無機質な白さと違って、
人間らしい、人が生きていくことを象徴したような、赤い色をしていて。
その花が、風もないのに、揺れたような気がした。
*
さて……あの子たちに笑われないように、泣いてばかりいないで、
私も、自分の帰るべき所に、帰りましょうか。
だって、帰りを待っていてくれる人がいるもの……
名雪。祐一さん。
二人のためにも、帰らなくちゃ…
ねえ、そうでしょう?
あゆちゃん。
真琴。
みんな、あなた達を、待ってるからね…
*
気がつくと、ぼやけたスクリーンに映ったのは、
涙をこぼし、顔をぐしゃぐしゃにした名雪と、沈痛な面もちの祐一さん。
あらあら、二人とも、どうしたの?
私は、妙に重い手を伸ばすと、
ゆっくりと、
名雪の顔を撫でてあげました。
*
「ふぅ…」
私は長椅子にゆるく腰掛けて、人知れずため息をつきました。
あれから、もう五年になります。
あれは、夢だったのでしょうか。
でも、この手に抱いた二人のぬくもりは、今もしっかりとこの両手に残っています。
あの約束は、確かなものだったのです。
その証拠に、…なんということでしょう。
祐一さんも、名雪も、あの二人のことは、きれいに忘れていました。
でも、祐一さんと名雪の、幸せそうな顔を見ていると、その方が良かったのでしょうかとも思えます。
でも、そうしたら、あの子たちは悲しすぎるのではないでしょうか。
でも、でも……
五年間悩み続けても答えは出ません。
私は、今でも悩んでいます…
ぱたぱた…
私の目の前を、若い看護婦さんが機材のケースを運んでいます。
ああ、そういえば、あの時は随分と名雪と祐一さんに心配をかけてしまいましたね…
私は今、名雪の入院している病院にいます。
あの時に私が入院した総合病院と一緒というのは、何かしら作為的なものを感じてしまいますね…
名雪は、大丈夫でしょうか。
……いえ?悲しいことではありませんよ。
むしろ、とてもおめでたいことです。
あらあら、祐一さんが待合室に駆け込んできました。
他の方々が、びっくりしています。
病院内で走ってはいけませんよ。
まあ、無理もないかもしれませんが。
「あ、ああ、秋子さん、お、俺、ですが、その、」
「はいはい、祐一さん、落ち着いて。
………生まれましたか?」
「は、はい、おかげさまで、二人とも、いえ、三人とも無事です。」
…そうです、今日は名雪の出産予定日なのです。
初めてだというのに双子の女の子だと聞いて、ずいぶん心配したのですが…
どうやら大丈夫だったようですね。
年若い父親は、私の前で慌ててまくし立てます。
「ですから、秋子さん、あの、」
「はいはい、祐一さん。私は今から病室に向かいますから、あなたも名雪の側についていてあげて下さいね。」
「は、はい」
私達が病室へ向かうと、そこには名雪がぐったりとして、
しかし満足げな表情で、ベッドに横たわっていました。
「おお!思ったより大きいな…ほーら、お父さんだよ〜」
「祐一、わたし…」
「うわ、名雪だったのか!びっくりしたぞ」
「しらじらしいよ〜」
くすくす…照れくささも混じった、祐一さん独自のねぎらい方に、思わず苦笑します。
「名雪…」
そして私は、名雪のそばに近寄って……
「お母さん」
「お疲れさま」
「うん、お母さんも、これでおばあちゃんだね」
「……そう呼ばれるのはちょっと抵抗があるけど、でも、うれしいわ。
名雪、お疲れさま」
祐一さんは、ベッドの下をのぞいたり、タンスの引き出しを開けたり、ごそごそと何かを探しています。
「なにしてるの、祐一…」
「お、俺の子供は、どこだ?」
「祐一、本気?…別室のベビーベッドの中だよ…」
「そ、そうか、よし、いくぞ、と、その前に、」
祐一さんは名雪の前に向き直ると、急に改まって、
「名雪……ありがとう」
「ううん。私ひとりのちからじゃないよ、祐一と、お母さんのおかげだよ」
「そして、秋子さん…ありがとうございました」
「あらあら、祐一さん。私は何もしてませんよ。
家族が増えるのは嬉しいことです…
こちらこそ、ありがとうございました。
そして、名雪のことも、どうかよろしくお願いしますね…」
「はい、俺では頼りないかもしれませんけど、え…と、その、絶対、絶対に幸せに…」
「わあっ、二人とも、こんな時に結婚式前のやりとりのやり直しをしないでよ…恥ずかしいよ」
名雪はそういって布団をかぶってしまいました。
「それに私、今、すごく幸せだよ…」
「ぐあ、名雪、恥ずかしいことをいうな…」
祐一さんまで頬を朱に染めます。
「あらあら…全く、この人達は…」
若いって、いいことですね。
祐一さんは、そんな私の視線に気が付いたのか、慌てて居住まいを正すと、
「秋子さん…っと、では、行きましょうか」
「そうですね」
「うう〜、わたしもいきたいよ…」
「だめだ。お前はここでゆっくりしてろ」
「そうよ名雪。今あなたがすることは、子供達のために体力を回復することなのよ。」
「うん、わかったよ…」
それでもまだいきたそうな名雪を残して、私達はベビーベッドの方へ向かいました。
ベッドの中で元気にはしゃいでいる、小さな小さな命。
一組の赤ちゃん。
二人とも、とても元気そうで、明るい光を放っているかのようです。
何故でしょう。
どこかで、見たことがあるような…
フラッシュバック
心の中に響く声
(「「みんな一緒に、「またいつか」、幸せに暮らせますようにって…」」)
(「だから……)
(いつか、絶対に…)
(絶対に…)
(みんなが、ボク達のこと忘れても、)
(秋子さんの、祐一くんの、名雪さんの、みんなの所に、帰って、ぅっ、来るから…」)
(「帰ってくるよ…帰ってくるよ…」)
(「絶対に、かえってやるんだからーっ…」)
そして……
今……
(「うぐぅ…」)
(「あぅー…」)
(「ええとね、秋子さん」)
(「せーの!」)
(「「ただいま!」」)
「うっ…」
「ちょ、秋子さん。どうしたんですか、突然泣いたりして…」
「ごめんなさいね、つい、嬉しくて…」
「ええ。俺も…すごく、嬉しいですよ」
この子達…
この一組の赤ちゃんは…
「うぐ、うぐ」
「あぅー」
よかった。ちゃんとこの子達は、約束を守ってくれたのね…
また、私達の家族になるために……
嬉しい。本当に、嬉しい…
私の傍らで、祐一さんが嬉しそうに微笑んでいます。
「はは、二人とも、変な言葉しゃべるなー」
「ふふ、でも、この子達らしいですよね?」
「そうですね……ほら、お父さんだぞ」
「お母さんですよ」
「……秋子さん?」
「…冗談ですよ。…元気そうな子で、よかったわ……
本当に、良かった……
本当に、良かったわね…
二人とも……っ、うっ、」
(「おかえりなさい」)
「秋子さん、大丈夫ですか…?」
「ぅ、ごめんなさい、大丈夫です…この子達には、笑顔で向き合ってあげるのが、一番ですからね…」
私はハンカチで涙を拭い、嘘偽り無く、心から微笑みました。
もう、悲しさなどかけらもない、本当の笑顔で、微笑むことが出来ました。
この子達のおかげでしょう。
「ええ…それに、実はもう、この子達の名前は決めてあるんですよ。
名雪と名前を考えていたら、何となくその名前が浮かんで…
名雪も、俺と同じ名前が浮かんだそうです。不思議ですよね。
で、どう考えてもその名前以外思い浮かばなくて…」
「そう…で、その名前は?」
もう、わかってますけど。
祐一さんも、名雪も、あの子たちのことを忘れたわけではなかったのですね…
あまりにも、悲しいことだから、ただ、心の奥にしまっていただけ…
その名前が、帰ってくるその時にいつでも取り出せるように…
あの子たちを家族として「また」迎えるときのために…
「はい、その、名前は…………」
*
カーネーションの花言葉は、純粋な愛……
そして、もう一つ込められた意味。
リインカーネーション。
…転生。
またいつか、生まれ変わっても、再び会うことが出来ますように……
そんな願いを込めた花。
こころに浮かぶ光景。
ものみの丘を、手をつないで、仲良く笑いながら歩いていく、二人の子供……私の娘。孫。家族。
二人の背中には、白い羽が見えるようでした。
(終わり)
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母、水瀬秋子さんに感謝を込めて――――――
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