雛祭
……八、九、十。
「もういいかい」
「まぁだだよ」
……十二、十三、十四、十五。
「もういいかい」
「もういいよ」
よぅし。いくぞー。
タンス、押入、戸棚の中。
見つからない。
「どこにいるのー?」
カーテンの裏、物置、裏をかいて居間。
……見つからない。
ひなこちゃんが居ない。
どこにも居ない。
どこにもひなこちゃんが居ない。
「……見つからないよぅ……」
じぃちゃんに聞いても教えてくれない。
ばぁちゃんに聞いても教えてくれない。
もしかしたら、もうどこにも居ないのかもしれない。
どこにも居ないのかもしれない。
どこにも居ないのかもしれない。
時間だけが過ぎて、過ぎて、過ぎて行く。
私は一人のまま。
「…どこ…? どこにいるの…?
ぅぇっ…ひっ… …いない…いないよう…
ひなこちゃぁん……ぅぁっ、
ぁあああああああああん……!
ひなこちゃぁぁぁぁん……!」
「…もう。しょうがないな。――ここだよ、なのこちゃん」
「ふぇっ…? あっ、ひなこちゃん! 見ーつけた!」
「だめだよ。今のは見つけたことにはならないよ。だってなのこちゃんが泣くんだもん」
「…ぅー…ごめんね…」
「いいの。そんなこと。じゃあ、私、またかくれるね。はい、なのこちゃん、十までかぞえて」
「うん、いくよ。…一、二、三…」……
………
「ええっ? ひなこちゃん、もういっちゃうの…?」
「うん、もうここにいる時間は終わったからね」
「やだぁ! もっとひなこちゃんと一緒にいるのぉ…!」
「ほれ、なのちゃん! ひなちゃんはもう帰るんだから、
引き留めたらいけねべ!」
「でも…でもぉ…!」
「なのこちゃん、さよならだね。また来年会おうね…」
ひなこちゃんが、
闇に吸い込まれていく。
「ひなこちゃん…!」
対照的に、わたしの周りを光が包む。
私の目に、眩しい光が侵入してくる。
私は今、揺られている。
私は…?
そこで、はっ、と気がついた。
ここは、列車の中だった。
ごとん…ごとん…と揺れながら、窓は田園の単調な風景を映している。
そうだった。
私は、祖父の家に行く途中だったのだ。
…大学の学年末レポートのせいで、祖母の一周忌に参加できなかった私は、両親に線香の一本でもあげてこいと言われたのと、ちょっとした小旅行も兼ねて、冗長な大学の春休みを利用して、故郷へと帰るべく、こうして列車に揺られているのだった。
そう言えば、私はもう十年間もこの故郷に帰ってきていないのだった。
両親は、数年に一回くらいの割合でおりを見ては来ているようだが、私はというと、わざわざ東北の山奥まで向かうのがおっくうで、ついつい行きそびれてるうちに、とうとう十年も経ってしまった。
昨年の祖母の葬式さえ、大学入試の真っ最中であったためと、それに連なる入学の慌ただしさから、死に顔を拝んでいないどころか墓前に花を供えてすらいないのだ。
窓の外には、相変わらずののどかな田園風景が広がっている。
乗客は、私の他には数人しかいない。しかも、皆地元の人間らしく、一目見るだけで「田舎のひと」としか思えない雰囲気をまとっている。女子高生と思われる少女の一団もいるが、会話のはしばしにどうしても抜けきらない微妙ななまりが耳につく。ああ、戻ってきたんだな、と改めて実感する。
しかしそれは、私に不安を与えこそすれ、懐かしさを感じさせる類のものではなかった。
私は、昔からどうしてもこの「土地」の雰囲気になじめなかった。
ここでは、私の存在は完全に「異」なものだった。
それなのに、その「土地」自体は私の領域を侵すかのように心の奥底に手を伸ばしてくる。
私は、いつもその「土地」の侵略から逃げていたような気がする。
なにがどう、というのではなく、具体的に言葉では言い表すことの出来ない、雰囲気のようなものだが、
もっとこう、うまくは言えないが、その存在の中核のあたりで、私が土地を拒み、土地が私を取り込もうとしていることが感じられた。
子供の頃は、その「なんとなく」な嫌悪感に包まれ、一時期自閉症気味だったこともあった。
それが一体どういう意味を持つのか、十九歳になった今でも全く分からないが、私がこの土地を嫌いになるには十分な理由だった。
そのことも、無意識に田舎に帰るのをためらわせた遠因であるかもしれない。
まあ、今回のようにわずか数日の滞在ならば、家でのんびりしていて、土地がどうこう、ということもないだろう。
むしろあれは、少女期特有の夢物語だったのかも知れない。そう思うと多少は気も軽くなった。
家…といえば、祖父…じいちゃんも、ついにひとりぼっちになってしまったのだな、と思う。思えば、十年前、駅に勤めていた父が急に転勤になり、母と私を連れて東京へと発ったときも、祖母と二人で随分と悲しんでいた気がする(最も、私は悲しみよりも土地から抜け出せる喜びの方が上回っていたが)。
そして、ついに去年、長年連れ添っていた祖母にまで先立たれ、さぞやわびしい生活を送っているのだろう。両親の話では、案外元気だった、とのことだが、いまいち不安が残る。
ひとりぼっちになるということは、どんな気分なのだろうか。
私は、大学に自宅から通っているので、未だ両親のスネをかじり続けている。
今いる恋人ともうまくいっているし、両親への紹介もすみ、公認の仲として通っている。
従って、私は、このまま行けば「ひとりぼっち」というものを知る時はだいぶ後のことになりそうだ。
ひとりぼっち…それはつまり、孤独。
それに伴う感情は、不安? 寂寥? それとも空虚?
良くない感情ばかりだ。
でも、それは真の孤独の時だけのもの。
人は、絶対に他人とのつながりを絶つことは出来ない。
その証拠に、私が今、じいちゃんの家へ向かっている。
待っててね。
……プシュゥゥゥ…ガタン
鈍い音を立て、列車が止まった。
どうやら、私の故郷の駅に着いたらしい。
私は列車を降りると、辺りを見回した。
遠い昔に見たような景色が開ける。
さすがにここまで来ると、いかに忌み嫌っていた土地とは言え、ある種の感慨が沸き上がる。
帰ってきたんだ。
私は、今はもう無人となってしまった駅の改札に切符をおくと、家への道をたどりはじめた。
一応、両親から地図を渡されてはいるが、そんなものは必要なかった。
私の身体が、足が、手が、家への道を覚えていた。
この土地の中で唯一の私の居場所であった家。
そこへと続く道を、忘れるわけがなかった。
私は、あたりののどか…と言うよりはさびれた風景の中を歩きながら、これからのことについて考えた。
祖父は、元気でいるだろうか。
私は、昔から祖父に可愛がられていたので、おそらく大歓迎してくれることだろう。
事実、電話で訪れる旨を伝えたときも、たいそうな喜びようだった。
ひとりぼっちで私を待っている祖父。
十年間も会いに来なくて、ごめんなさい。
友達のいなかった私とよく遊んでくれた…
友達のいなかった?
私はそこで奇妙なとっかかりを覚えた。
いや、友達はいたんじゃないかな?
でも、誰の顔も思い浮かばなかったし、私がよその子供と遊んでいたなんてとても信じられなかった。
私は、子供の頃は外にでるのが嫌で、いつも家の中でしか遊ばなかったのだから。
しかし、じゃあ、何故、友達がいたなんて思ったのだろう。
………
あ。
ふいに先程の夢の内容が思い浮かんだ。
「…ここだよ、なのこちゃん」
そうだ。どうして忘れていたのだろう。
私の唯一の親友、ひなこちゃん。
見る見る脳裏にひなこちゃんとの思い出が蘇ってくる。
やさしかったひなこちゃん。
かわいかったひなこちゃん。
いつも私の面倒を見てくれた。
年に一度しか会えなかったけど、心はいつも通じている気がしていた。
彼女は、今頃どうしているのだろう。
思えば、私は彼女のことをほとんど知らない。
ただ、覚えているのは、年に一度、春先…多分今頃の時期になると家にやってくるということ。
その辺から察するに、おそらく親戚か何かだったのだろうと思う。
まあ、その辺のことは、祖父に聞けば教えてくれるだろう。さすがに会うことは叶わなくても、今住んでる場所のことぐらい聞けるだろう。
それほど遠い場所じゃなかったら、近いうちに会いに行こうかな。
昔に比べて、ずいぶん行動派になった私に、自分でちょっと苦笑する。
私の歩く道は、だんだんと見覚えのある場所が増えていき、
そして、その記憶の合致が最も完全になったとき、
顔を前に向けると、
そこに私の家が在った。
大きな松。朽ちた納屋。広い縁側。
何もかも変わっていない。私は押し寄せる感情の激しさとは裏腹に、ただ呆然とそこにたたずんでいた。
その時、私の存在に気がついたのか、家人が玄関からこちらを伺いつつ歩み寄ってきた。
老いてなおがっしりとした体つきと、純朴な性格を表しているごましお頭。間違いなく、私の祖父…じいちゃんだ。
祖父は、私の姿を認めると、困惑したような顔で、私のことを遠慮深げに観察した。
「ええと、…どなたさんかね? うちになにか…」
私は祖父の言葉を途中で遮ると、
「あ、あの! 私、ええと…」
どうしたんだろう。懐かしさのあまりに声が詰まる。思うように言葉が紡げない。しかし、祖父は、ハッとしたような表情になると、私の顔をまじまじとのぞき込んだ。そして、
「ひょっとして、なのちゃんけ?」
「そう! そうだよ! じいちゃん、久しぶり!」
私は、自分の存在が認識されると、先程の無意味な緊張から解き放たれ、思わず祖父の手をつかんで、大きく振った。
「おぅ、おぅ、やっぱりなのちゃんだったの! すっかりでっかくなっちまってェ…オレァ、ぜんぜんわかんねかったよ。ごめんなあ」
「ううん、そんなこと。十年もこなかった私が悪いんだもの…」
「ああん、そんな気にするこっちゃねぇ。なのちゃんは東京でいろいろ忙しかったんだっぺ?」
祖父は私を優しくいたわった。悪いのは私なのに…。この外見からは想像できない細やかな心配りも、まさしく昔のままの祖父だった。陳腐な表現だとは思うが、私の心の奥に何かジンと熱いものを感じた。
「ええと、それで…」
「あー、まずは中に入ってからにすべぇ。ながぁく旅さしてきて、ほれ、顔が疲れたって言ってる」
そう言うと祖父は私を家の中に手招きした。
「ほい、早う来な」
「うん!」
私は、十年前の子供の頃に戻ったように元気よく返事をして、祖父の後についていった。
そのあと、まだ薄寒い早春の風で冷え切った身体を、居間の古びた掘りごたつで暖めながら、手土産などを早々に渡し、色々な話に花を咲かせた。何せ十年間も会わなかったのだ。話の種は尽きることがない。
あまり久しぶりなものだから、関係がぎくしゃくしないか、話が噛み合わないのではないかといった私の懸念も、全くの杞憂に終わった。祖父と私は、先程の再会の時もそうだが、何か心の底が地続きになっているような、打てば響くような会話が出来た。十年間のブランクなんて、全く感じさせない。家族、というものをこれほど強く感じたことは初めてだ。
私と祖父はそうやってしばらく旧交を温めた。
……ボーン。ボーン。ボーン。ボーン。
懐かしい音で、柱時計が四時を告げた。
「あれ、もう四時なんだ」
「あぁ、んだなぁ」
ふと、先程のことを思い出す。
「…ねぇ、じいちゃん。…ひなこちゃん…って、覚えてる?」
祖父の顔が困惑に曇ったように見えた。
だが、そう思ったのは一瞬のことで、いつもの顔に戻っている。
いや…それも何となく不自然な感じだ。
「…ねぇ、じいちゃん?」
「ん、あ、ああ。…いんや、オレァ、そんな子の事はしらねぇぞ…」
そう言う割に、祖父の身体は、不自然にこわばっているように見える。
なぜ?
「ええ? ほら、あの、私が子供の頃に遊んでいた女の子だよ。ちょうどこの季節によく遊びに来ていた…」
「いや、しらねぞ」
多少、祖父の語気が変わったような、妙な印象を受ける。
「えぇ…? でも…」
「しらねぇもんはしらねぇんだ!」
突然、祖父は大声を出した。驚いた私は、すっかりその場に固まってしまった。
え…? なんで…? なんで怒るの…?
困惑。
祖父は、すぐに我に返ると、気まずそうに頭を書き、申し訳なさそうに呟いた。
「あ、いや…すまねぇ、突然怒鳴っちまって」
私はすぐに言葉を返せなかった。
「でも、やっぱり俺はしらねぇ。ごめんな」
「ん…あ、ああ、いいの。ごめんね、変なこと聞いちゃって」
祖父が私を怒鳴るなんて、初めてのことだった。もし本当に知らないのなら、無意味にそんなことをするはずがない。きっと何か、訳があるのだろう。
もしかしたら、雛子ちゃんは何かの事情で…もう、会えなくなったのかもしれない。それは、あの温厚な祖父を怒鳴らせるほどの事情なのだろう。つまり、それは…
その先は考えたくない。
私は、押し黙ってしまった。
会話が、とぎれた。
カチ、カチ、と、時計が無意味に時を刻む。
気まずい沈黙が二人の間に流れる。
……
「あ、あのね、」
私が会話を無理矢理再開させようとしたとき、
じりりりりりりりりん。
不作法な電話のベルがそれを掻き消した。
「んあ、電話か…」
祖父がのそっと立ち上がり、棚の上に置いてある電話の受話器をつかむ。
「はい、もしもし…ああ、梶さん、こんちわ、ええ、ええ、おかげさんでどうも。え、あれ、ご存じでしたかぁ。はぁ、…」
この家の電話は、十年前と変わらない最早骨董品の黒電話だ。呼び出し音も、いわゆる電子音ではなく、昔ながらのけたたましいベル式だ。
「はい。ええ、今晩…ですか。そうですか、はぁ、まぁ、かまわんですけど、いやぁ、もうすっかり大人ですから…」
応答を続ける祖父を横に、私は部屋の内装を改めて眺めてみる。
電話だけではない。柱時計も、掘り炬燵も、ダイヤル付きのテレビも、花の形の置物も、畳の焦げ痕も、みんな、みんな十年前と何一つ変わらず、変わったものは何一つとしてなかった。
セピア色の思い出と、現在の視界が、ぴたりと一致する。
ただ一つ一致しないもの…祖母がいないのは少し寂しいが。
「ええ、梶さんも。あー、はい、んじゃ、九時頃で。いつもんとこ、はい」
梶さんというのは、昔からここの村長をしている人の名前だが、今年でもう八十幾つのはずなのに、まだまだ現役のようだ。しかし、その梶さんが祖父に何の用だろう。
「はい、んじゃ、かえってどうもー…」
チン、と受話器を置くと、祖父は困ったような顔で私に向き直った。
「あー…あのな、なのちゃん。悪いんだけんども、あとちっとしたら村の寄り合いさ出かけなきゃなんね」
ああ、なるほど。その電話であったか。
「んだから、まぁ、少し帰りが遅くなるかもしんねぇ。そんときは、本当にすまねぇけども、一人で晩飯食っててくれっけ?」
「うん、いいよ」
「ん、そんじゃ、飯は朝のうちに炊いてあっから。んで、なんちゅうんだっけ、あの入れ物。ご飯さ入れる奴」
「ジャー……のこと?」
「んだ、それそれ。新しい言葉は覚えづらくてダメだなぁ。んで、おかずは冷蔵庫に入ってるものを適当に食っててくれていいから」
「うん。わかった」
「それからだなぁ、ああ、んー…っと」
「大丈夫だよ、じいちゃん。私だってもう子供じゃないんだから」
私がそう苦笑混じりに返すと、祖父は急に表情を厳しいものに改め、
「んだげど、いっこだけ、しちゃいけねぇことがある」
と言って、奥の座敷を指さした。
「あそこの座敷、あるべぇ? あそこには入っちゃぁだめだ。何があっても、だめだ」
「え…? どうして…?」
私は首を傾げた。奥座敷は、襖もきちんと閉まっており、確かに近寄りがたい圧迫感のような雰囲気を持っている。
「ああ…あそこは、ばぁちゃんが死んだ部屋だかんな。縁起が悪ぃ」
別にそのくらいいいではないか。何となく釈然としない。それに、その理由も何となくとってつけたような印象がある。
だが、ここでまた深く追求して祖父の機嫌を損ねるのも嫌なので、大したことではないし、素直に言に従うことにした。
「んじゃ、行って来る。合い鍵は持ってっから、戸締まりはきちんとしておいてくれ」
「はぁい、いってらっしゃい。気を付けてね」
「おう」
ガラガラ…ピシャリ。
玄関の戸が閉まると、磨りガラスの向こうの祖父の影が瞬く間に遠ざかり、辺りは深淵の静寂に包まれた。
まるで、この世界に、自分が一人取り残されたよう。
この世界にいるのは、私一人。
いつまでも、独りぼっち…
…なんてね。
私は、言われたとおり冷蔵庫の中から刺身を取りだし、それをフライパンで軽く焼き、おかずとして美味しくいただいた。
なお、さも大事そうに台所の床下にしまってあった日本酒も、ちょっとだけいただいた。
そして、空虚な時間が訪れる。
何もすることがないまま、炬燵の温もりに包まれ、居間でボーっと地方局のニュースを見ていると。
ふと。
ざわざわ、ざわざわと、背中に何者かの気配を感じるように、奥の座敷が、気になり始めた。
初めは、じいちゃんの言葉を思い出して、ちらっと見て、きちんと閉められた襖を確認して、再びテレビに見入った。
しかし、ものの十秒と経たないうちに、私はついまたしても襖の方を確認する。
あそこから…何かが…私を…呼んでる…?
気のせいだと私は割り切って、半ば意地になるようにしてテレビの世界に没入しようとした。
でも。
呼んでる。
気が付くと、奥の襖に手を掛けている自分が居た。
危ない危ない。もう少しで、じいちゃんとの約束を破るところだった。
でも…一体なぜ、こんなにも気になるのだろう。
その時、不意に私の心の中に声がこだました。
「なのこちゃん」
呼んでる。
襖を開けたいという欲求が無限に膨れ上がり、わずかな自制心はどこかへと消え去った。
そして、私の手に…力が…入っ………た。
スタン。
襖は、気が抜けるほどに何の抵抗もなくスムーズに開いた。
開いたふすまの隙間から、そっと身を潜ませるように中へと入る。
祖父の言いつけに反したことをしているという恐怖と背徳感で、背筋がぞくりとした。
中は薄暗く、手探りを頼りに電灯の紐を掴み、使えるのかどうか分からないが、とりあえず引いてみた。
すると、かしりと鈍い音がして、ぱち、ぱちと辺りが光に包まれた。
灯りがついたことに安堵する、と同時に、視界に、紅がちらりちらりと掠めている。
不思議とそちらから、華やいだ空気が伝わってくるような気がした。
ごく自然に、私はそちらを振り向く。
そこには、大きな雛壇が飾られていた。
「どうして、こんなところに……?」
私は当然の疑問を口にする。
わき上がる好奇心で背中を圧迫する恐怖を抑えつつ、雛壇に歩み寄る。
それは、私のどの記憶を漁っても存在しないほどの豪華な雛壇で、深紅の敷物の上に、下から、五人囃子、三人官女、両大臣、他にも私が知らない人形達が、凝った意匠の飾り物に彩られ、田舎の家の一室に、まるでそこにあるが当然のごとく、超然とたたずんでいた。
そして、最上段に目をやると、これもまた生きているかのような錯覚さえ起こさせる業物のお内裏様、その隣に……
あれ?
お姫様が……居ない。ちょうど、お姫様が鎮座ましましているべき場所に、ぽっかりと不自然な空白だけが有った。
何故だろう?
私が、良く確認しようと、さらにもう一歩近づこうとした、その時、
「なのこちゃん」
背後で、声が聞こえた。
それは、さっきまで私を呼んでいた声のようであり、とても懐かしい声のようにも思えた。
思わず振り向く。
目を見張る。そこには、鮮やかな着物を身にまとい、神秘的な美しさをたたえた女性が居た。
薄く紅が張られた、艶のある唇が動く。
「久しぶりだね、なのこちゃん」
頭の中にさっと冷水が入って行く。
私は、心に浮かんだ名前を、そのまま口にした。
「ひなこ……ちゃん?」
嘘。ひなこちゃんがこんな所にいるはずがない。
しかし、返ってきた答えは、
「そうだよ」
存在の肯定。
えっ……? どうして?
私は、再会の喜びよりも先に、いくつもの疑問がわき上がった。
その存在。その場所。空白のお姫様。雛壇。隠された座敷……
時を刻むことを忘れ、私は、その場に静止したまま動けなくなった。
「どうしたの、なのこちゃん」
ひなこちゃんの、凛とした声が響く。ようやく我に返ると、
「え、えっと……ひなこちゃんが、どうして、ここに居るの?」
そう、何故だろう。ひなこちゃんの存在。奥座敷。祖父が何故これらを隠したのか。それは、私に嫌なイメージを喚起させる。
何……とは言えないけど。
ひどく……悪い予感がする。
ひなこちゃんは黙して語らず、しずしずとこちらに歩み寄ってくる。
私は思わず後じさってしまうが、ひなこちゃんはそれに構わず、私の耳元、ぴったりに顔を寄せる。
混乱の極みにあった私は、何ら反抗など出来ようはずもなく、されるがままになっていた。
突き抜けるように、耳から言葉が侵入してくる。
「そんなことを気にしては、駄目よ」
刹那。
脳髄に稲妻に似た衝撃が走る。私の思考は言霊に縛られ、一定の方向の事しか考えることを許されない。
雛子ちゃんの言葉が何度も何度も私の中で木霊する。
何と言うことだろう。
今や、私の中に渦巻いていた疑念は綺麗にかき消され、もっと原初の欲求に似た感情が表面を支配する。
会えた、喜び。
ようやく、雛子ちゃんに会えた。
嬉しい。
それだけが私の全てになった。
「雛子ちゃん……! また、会えたんだね」
「うん、そうだね」
私はこみ上げる感情の行き場に困り、優しい微笑みを浮かべている雛子ちゃんに、思わず抱きついてしまった。
「雛子ちゃん、私、私」
まるで幼子のように、じわりと涙が滲んでくる。
「うん、うん。随分、久しぶりだったからね」
そう言って、雛子ちゃんは、私の突然の抱擁に嫌な顔一つせず、ゆったりと抱き留めてくれた。
ああ……雛子ちゃん。
暫く後。ようやく落ち着いた私は、少々の照れを伴いながら、雛子ちゃんから身を離した。
「もう、いいの?」
あくまでも優しく、雛子ちゃんが笑いかける。
「うん、大丈夫。ごめんね、突然……」
「ふふ、いいよ、そのくらい」
「ううん……なんだか、昔に戻った様な気がするね」
昔の私は甘えん坊な方で、雛子ちゃんはそんな私の「姉」となってくれた。
「そうだね。ねぇ、少しお話ししよう。話したいことが、沢山あるの」
そう言うと、雛子ちゃんは慣れた手つきで部屋の隅から座布団を持ち出し、私の前に敷いた。
「ありがと」
私はそれに座り、様々なことを話し始めた。
大学のこと。両親のこと。恋人のこと。祖父のこと。
しかし、けして雛子ちゃんは自分のことを話そうとしない。ただ、私の話を聞いて、それに相槌を打つだけ。私は、そのことに、何ら疑問を抱かなかった。私自身も、雛子ちゃんのことは、何一つ、聞かなかった。
もう、どのくらい時間が経ったろう。この座敷には時計がないのでよく分からないが、もう随分と夜も更けたはずだ。そろそろ祖父も会合から帰ってくるだろう。その旨を雛子ちゃんに伝えると、彼女は、
「ああ、もう、そんな時間……」
と呟き、寂しそうに微笑むと、ゆっくりとこちらを見上げ、
「ねぇ、菜野子ちゃん、かくれんぼしよう」
「え?」
突然、何を言い出すのだろう。今まで、雛子ちゃんの言うことを全て無条件に受け入れてきた私も、さすがに思わず面食らった。
「やだ、雛子ちゃん、何言い出すと思ったら……」
冗談と受け取り、私は苦笑いを返す。しかし、それは違うと分かっていた。雛子ちゃんの瞳は、真剣そのものだった。
「今度は、菜野子ちゃんが隠れる番だよ……」
私の言葉を無視して、にじり寄ってくる雛子。その顔には、今までと変わらぬ微笑みが浮かんでいるが、今のそれは、あたかも妖しのそれであった。
再び、脳髄に不快感を伴った電撃が走る。
すると、呪縛から解き放たれたかのように、私の思考が活動を再開する。
そうだ、私は何故こんな所にいるのだ。目の前のこの「雛子」とは、何者なのだ。
恐怖、恐怖、恐怖、恐怖。
不安、不安、不安、不安。
嵐に叩き込まれた私の精神が導き出した解答。それは、逃亡。
逃げよう。
急いでこの場を後にしようとする。
しかし身体は私の言うことを聞かない。足はすくんで、腕は震え、腰は鉛のように重くなり、表情には恐れが張り付いた。
「ふふふ」
雛子は、尚も私に近寄ってくる。やめて。来ないで。
あまりのことに、私の両の瞼からは、ほろほろと珠が零れ落ちた。
「泣かないで良いよ、菜野子ちゃん。ほら、可愛い顔が台無しだよ」
そう言うと雛子は、身動き取れないまま涙を流し続ける私の顔にその手を近づけ、優しく、愛おしげに着物の袖で涙を拭った。
「ひっ……! あ、ああ……」
最早、まともな声を発することすらままならない。
喉から漏れるのは風の音に似た掠れ声。
だれか たすけて
「あ……ああぅ……」
「御免ね、菜野子ちゃん。でも、こうするしか、もう、方法がないの」
何故か寂しそうな微笑を浮かべ、雛子が顔を近づけてくる。
「ふぇ……? な、何……?」
私がようやく発することが出来たかと思った言葉は、雛子の唇によって全て覆われ、奪い尽くされた。
そのまま、唇を重ね続ける雛子。私は目を見開いた。
「や……んむ……ふぁ……」
雛子は、そのまま私の肩に手をまわし、私を身体ごと引き寄せようとする。
突き抜ける嫌悪感。そんな……こんな事って……
舌が、私の唇を割り、口腔に侵入してくる。絡み合う舌と舌。
抵抗……出来ない。
体中から、力が抜けてゆくのを感じる。
逆らう気力も失せ、私は雛子の術に身を任せた。
「菜野子ちゃん……」
雛子の言霊が、私の脳神経の一つ一つを破壊してゆく。そのたびに失われ行く、感情、理性、そして記憶。
思考にノイズが走る。セピア色が今に染まる。
「…もう。しょうがないな。…ここだよ、なのこちゃん」
ああ、これは。幼き日の記憶。
甦る思い。今や傀儡と化した我が肉体。
私の身体は隅々まで蹂躙され、雛子に支配される。
自我は崩壊する。
「…もう。しょうがないな」
ああ、そうなのです。私は、しょうがない子なのです。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
本当に申し訳御座いません。
畳の目がやけにくっきりと目に映ります。
私は何時の間にやら畳にぐったりと崩れ落ちていました。
何があったのか私は覚えておりません。着物はその辺りにうち捨てられております。
もう何も分からない。考えられない。世界の歪みが、しっかりと確認できました。
そんな私を横目に、雛子様はするするとご自分の帯を解いてゆかれます。
するする、するする、はらり。
ぱっと雛子様の真白の肌が露わになります。
下着は着用になっておらず、畳に脱がれた赤い着物と夜の闇に、その白色は厳かに映え、とても綺麗でいらっしゃいます。
その様は、長閑な道端にありながらも凄絶な美しさをたたえる女郎花。
絶対的な支配者の御姿。
「ふふ……」
艶然たる微笑みと共に、私ににじり寄っていらっしゃいます。
そして一瞬の炎。
脳神経の接続を取り戻す。
ただ、私の目に見えるのは雛子の顔のみ。それ以外は目に入らない。
「ふふ……ぅ……ん……」
二人の口から漏れ出るのは、既に声とは言えず、永遠の透明な響き。
視界が霞みだし、赤と白と黒が全ての映像。
「雛子……ちゃん」
「菜野子ちゃん」
互いを求める呼びかけ。
この世界と自分自身の存在を、私は放棄した。ただ在るのは、掴んでいる手の温もりだけ。
溶け合う心と体。
私が雛子ちゃんになり、雛子ちゃんが私になる。
私は雛子ちゃんと同一の存在になる。
そして。
音もなく、崩壊。
随分と長い間、私は気を失っていたようだ。
痛む身体の節々を押さえ、ゆっくりと上体を起こす。
ぴし
「うっ……」
突如、頭痛が走る。
脳裏に、雛子との『事』がまざまざと甦った。
その行為の意味を考える間もなく、私は雛子の存在を求めた。
居なかった。
雛子は、何処にも、居なかった。
それどころか、あの座敷も、雛壇飾りも、襖も、柱も、畳も、白檀の香りも、淫らな匂いも、薄い光も、風の音も。
全てが。
無かった。
辺りには、空虚な、ただ、空虚な闇が広がっていた。
ふと気が付くと、私が着ている物は、ひなこの着物だった。
そうか。
私は、ひなこになったのだ。
それを認めた途端、私の体は動かなくなった。
ただ、意識だけは、やけに鮮明だ。
まるで金縛りにあったかのように、手足に力が入らない。
自分が人形にでもなったかのようだ。
いや、人形そのものだ。人形そのもの。――ひなこのように。
……勿論、そのことはとうに気づいていた。
ひなこが雛人形の化身であることなど。
昔、友達の居なかった私は、いつも部屋で人形遊びばかりしている内向的な子供だった。
中でも、三月三日の雛祭の前にだけ会うことが出来るお雛様は、大のお気に入りだった。
しかし。
この地方に伝わる言い伝え。
「雛人形に魅入られると、取り殺される」
両親は笑って気にしなかったが、祖父母はそれを酷く恐れていた。
だが、桃の節句の時期にだけは、溜まった『念』を放出させるために、必ず雛人形を表に飾らなければならない。
祖父母は、なるべく私を雛人形――ひなこから遠ざけようとしたが、私は祖父母の目を盗んでは、ちょくちょくひなこと遊んでいた。
楽しかった。
本当に楽しかった。あの頃。
そして、十年前の別れ。
それから、十年間も……ずっと、あの暗い奥座敷で、私を待っていたのだろうか?
その時、急に視界が明るくなった。
上方から、光の帯が差し込んでいる。
祖父の声が聞こえる。ようやく帰ってきたのだろうか。
そう言えば。
私は、自分が置かれている異常な状況を思い出した。
このままでは、閉じこめられる。
取り殺されるのではなく、取り替わられる。
助けて。
声が出ない。人形は、喋らないのだから。
突如、光の帯が細くなり、誰かの瞳が見えた。
神秘的で、妖艶で、とても優しい、私が良く知っているあの瞳。
「来年になったら、見つけてあげる……」
彼女は隠れん坊の鬼になったのだ。
私の「もういいよ」は、一年経つまで聞こえない。
パタン。
箱の蓋が閉じられる。
辺りには、静寂の常闇が流れる。
私は人形になったのだ。
平成十一年三月三日 着想
平成十二年三月三日 前半 脱稿
平成十三年三月三日 後半 脱稿
平成十三年三月七日 完全版 脱稿
「なのこちゃん、見つけた」
その様な声が聞こえた気がいたしました。
すると、いつの間やら私の周りの闇は取り払われ、辺りには、私の住んでいた家の奥座敷が現れたので御座います。
私の側には、少々埃をかぶってはおりますが、大変綺麗な雛壇飾りと、一部分だけ赤黒く変色した畳と、膳の上に置かれたお手紙が一通、御座いました。
その手紙を取ろうと、私が屈んで手を伸ばしますと、不思議なことに手紙の封が独りでに解け、あれよあれよと云う間に中に包まれていた和紙が膳の上に広がったのでした。
久しぶりの明かりにちかちかする目頭を抑えながら、その手紙を読みますと、このような事がしたためられてありました。
*
前略
こう云ったお手紙の類は全く書いたことがないので、私の言いたいことがきちんと伝わるか不安ではありますが、どうか御容赦下さい。
貴方は、私を恨んでおいででしょうか。愚問かとは自分ながら思います。そのことは、覚悟の上です。
ただ、これだけは知っておいていただきたく、こうして筆を執っています。
この出来事の真実を、今、お教えいたします。
あの日、村の寄り合いで一つのことが決まりました。
新たな隧道、貴方にはトンネルと言った方が分かりやすいかもしれません、それを工事せんが為、若い女を人柱に立てること。
その役割に、地の巫女の血を引く、貴方に白羽の矢が立ったのです。
貴方が気づいていたどうかは分かりかねますが、貴方の血筋は土地に愛された者の末裔。
その娘を人柱に立てれば、人も疎らになったこの村に再び賑わいを取り戻せるだろうと言うのが村長、梶の思惑でした。
貴方の祖父が、貴方の来訪を数日前から触れ回っているのが耳に入ったのか、そのことを数日前から腹に決めていたようです。
私の耳は村中に有りますから、寄り合いの内容も自然と聞くことが出来ました。
皆、始めは難色を示したようでしたが、このままでは永遠につましい暮らし。
村を救うためと梶が恫喝し、半ば強引に貴方を土地に捧げることが決まったのです。
他にも、皆で口裏を合わせれば警察にもばれるまい、山に入って帰らなかったことにしようなどとも言ってました。
本当に、馬鹿な者達。
しかし私は、如何に桃の節句の間とはいえ、この座敷から直接離れることは叶いませんでした。
考えたあげく、襖の向こうから、貴方に誘いの念を送りました。
後は、貴方の知るとおり、入れ替わりの儀を行ったのです。
この儀式は精神が集中していないと出来ないが故、貴方に本当の理由を話せず、しかも貴方の心を半ば操る形になってしまいました。
恐怖、そして安堵。操心術の初歩です。言い訳がましいかもしれませんが、私の不遜な態度の理由を、分かっていただけたでしょうか。
その後、村の寄り合いから急いで抜け出した貴方の祖父は、何とか貴方を、いえ、貴方の身体と入れ替わった私を逃がそうとしましたが、一足遅く、玄関を出るとそこにはすでに手に手に鍬や鋤を持った村の男衆が、家を取り囲んでいました。
梶に至っては猟銃まで持ち出しており、土地が狂って居るせいか、村の者もおかしいとしか例えられません。
娘を犠牲にしなければならない村なら、いっそ滅んでしまえばよいのに。
村のためだという連中と、一歩も譲らない貴方の祖父。
じりじりと後退して行き、ついにはこの座敷まで追いつめられ、貴方の祖父は殺され、私も連れてゆかれました。
その前に時間を貰い、遺書としてしたためたのがこのお手紙です。
この村はゆっくりと滅んでゆくでしょう。
何故ならば、私を贄に捧げようと言うのですから。
どうしてくれましょうか。
土地を腐らせ、病を蔓延らせ、鉄道を素通りさせて村を孤立させ、ありとあらゆる手段を用いましょう。
貴方が箱から出てくるのは、一年後、この村が滅びてからが良いでしょう。
その時にはこの村の呪いを解き、最後の力で貴方の身体も元に戻しましょう。
それがせめてもの償いです。一年、我慢してください。
最後に、これしか方法がなかったとは言え、本当に御免なさい。貴方の祖父の命さえ奪われてしまい、許してくれとは言えません。
ただ、貴方のことが、好きでした。
それでは、お身体にお気をつけて。
かしこ
雛子より みもとに
追伸 居間にある箪笥の抽斗に、この辺りの地図といくらかの貨幣が入っているはずです。
それを頼りに、東京に帰ると良いでしょう。
*
少々長めのお手紙ではありましたが、止め払いを正した麗しい筆致であったため、すらすらと読むことが出来ました。
どうやら、このお手紙は、私に宛てて書かれたもののようです。
ですが、この手紙を拝読しても、私の心には何の感慨もわき上がりませんでした。
だって私は人形なのですもの。
ただ、此処にじっと座って、遊んで下さる方をお待ちするだけなのです。
お待ちするだけなのです。
ずっと。
あざやかなもものはなびら
かぜにふかれて
ひらり、ひざのうえ。
(幕)
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