ポジション

 霧生莢音は堕ちるか飛ぶかの狭間に存在して空中にふわふわふわふわ浮かんでいるような女でありつつも実のところしっかりと動かない絶対座標を持っていてしかしそれでも周りから見るとどうしようもなく不安定なロープの上でふらふらと今後の自分のことを決めかねているような雰囲気を持つスレンダーな女だった。
 さて私が彼女と出会った時期なんてもうとんと覚えては居ないが人を寄せ付けないような女と見せて実に付け入る隙の多そうな彼女を全く私は可愛い可愛いと思っていたもののそれでも彼女は自分が今居るポジションから動こうとはせず私が何度誘いを掛けてもその反応はまるっきり変わらず毎回判を押したようにさらりとかわす掴み所の無い彼女に私はますます入れあげていった。彼女は自分の色気をふんだんに振りまきながらそれに全くと言って良いほど無自覚的で果たして自分が女であるかどうかと言うことすら気にしては居ないのではないだろうかなんてほんの少し思ってもみたが私が下品なジョークを口にすると照れたり赤面したりするところを見るとそうでもないらしい。その後は間違いなく私は蹴られたり殴られたりするのだがこれはご愛敬。男友達も多く彼女の周りには誘蛾灯の如く常に何人かの男が集まってきてはいるがそれは例えば男っ気が有ると形容すべきものではなくそうそれは正しい意味での友達。からかいからかわれのまったくフランクな関係でしかなかった。勿論この私すらも彼女にとっては時々エロい事を言う馬鹿な友人としか見られていないのだろうが最初の段階からすればそれは十分すぎるほどのランクアップだだがしかし、やはり彼女のポジションは私の中でもそれ以上動くことはなくもちろん彼女の中での私のポジションもまったく停滞していた。総てを停止させる女。ゆらゆらと浮かんでいてそれを突き動かすのは凄く簡単なように見えて実は絶対に動こうとしないのだ。無防備なようで総てを受け流すそれが霧生莢音の天性の才能そして魅力。
 私には妻が居て私は妻のことをそれはもうこれでもかと言うくらいに溺愛していて妻の方も溢れるばかりのピュアな思いでそれに答えてくれていたがいつしか私の家には妻の姿は消えていた。果たしてその理由を延々考え続けた時期も有ったが今はもうそう言うものだと割り切って居るごめん嘘実は今でもすんごく気にしてますだがしかしそれと同時に私は莢音のことも深く深く愛している、のだろうけれど実はこちらのほうは妻とは違って自信はない。霧生莢音と言う女はそう言った湿った情熱と言う世界のまるっきり線をまたいだ反対側の乾いた空間に存在していてそこに足を踏み入れようとした私の心すらも穏やかに涼しい空気のようなものに変換してゆくのだった。
 莢音は時々暇を見ては妻長期不在の私の家に来て飯を作って自分で食っては帰っていった。そこに愛情が介在するか否かはもう余り問題ではなく私は莢音がそばに居てくれることがとても嬉しかった。莢音の作る料理は本人の性格と反して暖かみに溢れていてそれを指摘すると柄にもなく莢音は照れた。しかし莢音は私の妻ではないそれを残念に思うことは何度か有ったがやはり莢音は私の妻ではない私の妻は一人きりだ。だが莢音は莢音として私の家にやってきては作って食って帰った。私と彼女の関係は友人と言えばそれで済むのだろうが本来はそれ以上に複雑ではあったしかしそれでも、彼女はポジションを変えようとはしなかった。
 彼女は軍人っぽい仕事をしているしかし軍と呼ぶと彼女は怒る曰く情報部だと。しかし私にとっては軍も情報部もやっていることはほぼ一緒にしか見えずしかも彼女は実働部隊ますます一緒である大体巨人軍にしろたけし軍団にしろあれが軍を名乗っているのだから莢音も軍で構うまいとは思ったが時々意地の悪い妹が私に対し妻に愛想を尽かされたのだろうと性質の悪い揶揄をしかも笑顔で言ってくるのだが私はそれに頑として反発するいいや妻は私を見捨てたりはしないっ。それと似たようなものなのだろうと思って私は黙っていた。彼女は一度だけ私の家のすぐ近所で仕事をしたことがあるどうやら私の家の三軒隣は近隣国のスパイだったらしいうっわ私随分危険なところに住んでいたのだなあと後に聞いて知ったのだがその仕事がリアルタイムで行われているときは単に普通の一人っ子両親健在三人核家族を虐殺しているようにしか見えなかった莢音が。軍服をしっかり着こなしたいかにも屈強そうな男達に混じって莢音はポニーテールを揺らしながら手に持ったハンドガンを威嚇用にと地面に向けて掃射ガガガガガガガガガガガガガたまたま散歩中その光景を目の当たりにしていた私は耳をふさぐ、しかし莢音の姿を一時も網膜から排除することは出来なかった続いてまたガガガガガガガガガ。出てきた30がらみの若い父親、いや父親役を勤めていた間諜をナイフでスパ。いつあなたはナイフを取り出したんですかと言う質問すら却下させるほどの早業で莢音は人の命を奪う首から噴き出た真紅の濁流を莢音はさっとかわして玄関の柱に背をもたれさせる。だくだくだくだくだくだくだく血が流れているああ真っ赤だ、なんとその赤の鮮やかなことか私はその感じられるはずもない血の臭いを感じて顔を歪めるあたかもその血流を自分が真っ正面から受け止めたの如く。そして莢音は私が血を浴びている光景をきっとテレビ越しで見ていて、あ、死んだとしか思っていないのだろう何の感情も浮かんでいないああ今日は何を食おうかなと思っているようなそんな顔だった。
 そしてその夜莢音は私の家のインタフォンを鳴らし私がはあいと返事をする前に玄関のドアを開けてずかずかずかずかとキッチンに踏み込むその時丁度野菜炒めを作っていた私はああとうとう莢音に殺されるのだなあの若い父親役の男のように鋭利な刃物で何が起こったか分からないほど速く速く殺される早く早く早く早く私を殺すのださあ莢音しかし彼女は手に持ったスーパーのビニール袋をどすんと床に置いてこう言った。
「野菜炒め焦げるよ」
 そうですね焦げますねおっと危ない私はざっざっざと野菜だの肉だのをパンの中に散らすざっざっざ。莢音は勝手にうちのまな板を取り出してまな板と言えば莢音は胸が薄い本来はスレンダーと形容するべきであって実際彼女の胸の形は綺麗であり気にするようなものでもないだけど言うとムキになって怒るので大変可愛いのです、その莢音は今日人を殺してきたのだ、ナイフですぱりとそしてそれよりかは幾分劣る手際で包丁を握って持参したキャベツとピーマンを切るざくざくざく。そして何の脈絡もなく私のフライパンの中にそれらをつぎ込むちょっと莢音さん何をするんですかいいじゃない別にだって肉が足りないですよヘルシーでいいでしょ悪戯っぽく笑う彼女。そう言えば彼女はまだ十代なのだなあなんて思い出して私もつられて笑う。そう言えば今日居たね、ええ居ましたよ、あの人らスパイだったんだよ、へえそれは知りませんでした怖いですねえと今日の顛末はそこで聞いた。怖かったかなとか大丈夫だったかとかは彼女は何も言わない気遣わないそれが普通であるかのごとく平然と語る。所であの家族がスパイだったと言うのはちょっと後に二人で野菜炒めを食いながら見たニュースでも流れていたがどうやら事実であるようだマスコミが言うところ。しかし本当にあのゴミを出すときに出会うとお早う御座いますと言ってくれた旦那さんも奥さんももうすぐ小学校にあがると聞いていた子供さえもスパイだったのだろうかまあ事実関係を知ることは無いのだがそう言う連中の笑顔の奥には色んな秘密が抱えられていたのかと思うと恐怖を通り越していささか現実感を失うそしてそいつらをスパスパ殺したのは彼女だ。主人を殺した後子供も殺したんですかあなたはと聞こうとしたがやはり彼女の答えを聞くのは憚られるような気がして私は口をつぐむ彼女は何も言わないいいや一言だけ彼女は私に問うた。
「美味しい?」
 事実私だけで作るよりもその野菜炒めは美味しかったですよ。
 次の日私の近所では銃撃戦が起こったあのスパイ一家の所持していた機材からテロリスト集団との交信記録しかも潜伏場所はすぐ近くの廃ビル! と言う名目により情報部出動故にそうなる。さすがに近隣住民には退避勧告が出されたものの私ははいはい今出ていきますよと言いつつ家から出ることはなかった一度だけ妹が電話してきて退避勧告出てるじゃんかよー、あんたなんでまだ居るんだよーと呑気な口調で私に問うた。いや別に何となくと言ったらそっかとだけ言って妹はぷつりと電話中止。うん電話代の節約をするお前は良い子だ。
 ガガガガガガおお始まったようですねと私はサンダルを突っかけてほいほい現場に歩いてゆく。幸いなことに誰にも見つかることはなかったと言うか見つかったら射殺されていたのだろうまあもしそれが莢音だったら言うこと無しもし莢音以上の美人だったらせめてナンパしてから死にたい廃ビルに近づくと段々段々と銃声が大きくなってきてそれと呼応するように私の動悸も激しくなっていくそこで気づいた! おい何をしているんだ自分、馬鹿か私、今から戦場になろうと言う場所に何の用が有るというのだお前は、死にに行くのかそれとも莢音を見に行くのかいやちょっと違うよ。
 人を殺している莢音を見に行くんだ。
 廃ビルに近づくとその周辺に散乱している建築物の残骸やらなにやらの影に隠れて情報部とか言う連中が廃ビルの中に立て籠もっている都市迷彩の集団とドンパチやっている、あっ莢音発見。莢音は何故か密林迷彩のズボンだそして上はタンクトップ何を考えてるんだと思ったがよく記憶を掘り返すとそれは莢音の普段着ますますあんた何考えてるんだ。さて私はさっさっさと連中よりも少し遠目にある物陰に隠れて様子を伺った莢音の周辺にいた何人かが火炎瓶を受けて盛大に燃焼するああもう全身焼けただれてるよ莢音はそいつを邪魔だとばかりに襟首を掴んで熱くないのかよ後ろにずざっと引き倒すそこに仲間がやってきて消火器ぶしゅーすぐ消える炎ナイスコンビネーション。もう一人ずぱんと火炎瓶を受ける情報部だかなんだかの男あっこいつはもうダメだ顔面直撃燃えさかる顔を掻きむしる暴れる莢音に近づくこら莢音の白い肌を焦がすな莢音と私の意志疎通は完了莢音はそいつを蹴り飛ばして外に追い出すそこに突き刺さるテロリストの銃弾ダッダッダッ。新たな火炎瓶の気配を感じて莢音は銃弾の雨をかいくぐりえっえっあのっこっち来ちゃいましたよ。私のすぐ隣に入ってからもこっちに気づかないそぶりでむこうの様子を伺っている莢音にもしもしと声を掛けたら振り返ってうわって感じで驚いた。何やってるのさあんた危ないよ、分かってますけれどまあなんとなく、別にいーけど邪魔しないでよね、ええ勿論です莢音は私との会話を途中で打ち切ってもう少し狙いを付けやすい位置に移る。そして私の方を向くとひらひらと手を振る珍しく笑顔だ、あなたねえそこ実は安全なようで敵から丸見えですよ。そこに降り注ぐ敵の弾幕だんだだーん哀れ莢音は笑顔のまま額にぷつんと穴を開けてぐらりと倒れ伏した怒りと哀しみにむせび泣く私とかだったらまだ物語のようで素敵だがあいにくこれは現実。莢音は敵の弾に一発も当たらずおっとっとと体勢を立て直しダッダッダッダッ。ああ莢音は人を殺している。
 その夜の莢音はキムチを持ってきて珍しくビールを飲んだ。しかし莢音は酒に弱いらしくすぐに呂律が回らなくなり程なくダウンする人殺しの莢音しかし私は彼女が本当に好きで好きで好きで好きで仕方ないのだけれどやはりそれは情熱を伴わない、いやファックされてくれるならしますよ。ただ絶対にさせてはくれまいなあと私は彼女を揺り起こすあの帰れますか大丈夫ですか今日は泊まってくーとか言い出したので客間に布団を用意してあげる。その中に放り込むと莢音はすぐぐうかぐうかといびきをかき始めた凄く気持ちよさそうな顔であるハンドガンを撃っているときよりも。しかしだからと言って私が色気を出して例えば剥き出しの鎖骨に指を這わせたりすると嫌そうな顔をするナイフを振るっているときよりも。私は部屋に戻って隣に妻が居ないダブルベッドに寝転がりそう言えば莢音のポニーテールを解いてあげるべきだったかなとか考えつつ眠る。
 夢の中には妻が出てきた。



(終わり)

絵とキャラクタ原案 鬼火さん



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