僕の部屋には幽霊が居る


 僕の部屋には幽霊が居る。
 長い長いロングヘアを腰まで垂らした、細身の女の幽霊だ。いつの時代のファッションかは分からないけれど、洋服を身につけているところを見ると、少なくとも、平安とか江戸とか由緒正しい幽霊と言うわけでもないらしい。
 そいつはいつも、部屋の隅に立って、茫洋と前を眺めている。
 特に害を為すわけでもなく、こちらを睨んでいるわけでもないから、どうと言うことは無いけれど、やはり、気持ちが悪い。
 ったく、妙に家賃が安いからおかしいとは思ったよ。確かにここは、築30年は経とうと言うボロアパートだけど、さすがに家賃一万円は無いよなあ。
 不動産屋と下見に来たときは、何の気配もなく、姿すら現さなかったくせに、いざ入居と言うときにいつの間にか立っていて――なかなか意地の悪い奴だ。
 ただ、隣に長く住んでる30代のロック兄ちゃんに聞いてみても、居るのは知ってると言うことだけで、何故か、と言う疑問の答えは分からないらしい。特に土地に因縁が有るわけでもなく、昔の入居者が死んだわけでもない、だそうだ。
 ま、みんな大抵一週間で逃げ出すんだが、お前さんはどうかな? 兄ちゃんはそう言って、真夏だというのに革ジャンを翻しバイトに出かけていった。
 他人事だと思って気楽に言ってくれるよ。そうして自室のドアを開けると、陰鬱にたたずむ彼女の姿。
 僕を困らせてそんなに楽しいのか。ん。
 と、詰め寄ってみたところで、彼女は僕に視線一つよこさない。
 その表情には、悲しみも、苦しみも、怒りさえも――何も感じられない。
 生きてさえ居れば、結構な美人だとは思うのだけれど。いかんせん、幽霊じゃあ、ねえ。
 ここで暮らして一ヶ月、いい加減に慣れてきた。何度も、出て行こうかと思ったけれど、家賃とこいつの存在を天秤に掛けると、僅かに家賃の方が僕には重荷だった。
 無口な同居人は、今も僕の背後で立っている。おーい、と声を掛けても無反応。
 こいつのことを大学の友達に話しても、一笑に付されるだけだった。何度か僕の部屋に遊びに来た奴も居るけれど、そいつらには彼女の姿は見えないらしい。
 自称、霊感が有ると言う友達――ちょっと薄気味悪くて、あまり友達とは呼びたくないけれど――だって、何故か彼女のことは見えなかった。
 そのとき僕は、彼女を独占できたような気がして、少しだけ、優越感を覚えた。
 ただ、そのとき、霊感の彼は、俺には感じられないが、本当に居るのなら、部屋の四隅に塩を盛れば、気休めになると言い残していった。
 僕は早速その夜、コンビニで食塩を買うと、部屋の角に少しずつ盛ってみた。
 一角、二角、三角。そこまで終えたところで、どれほどの効果が有るか、と、僕は彼女を見た。
 すると、彼女は、意外なことに――そう、意外にも――凄く、苦しそうな顔をしていたんだ。
 初めて見る彼女の表情。まるで、見えない炎に焼かれているかのように、苦悶に喘ぐ顔。
 姿勢は、いつも通りの直立不動だけれども、陸に揚げられた魚のように口を大きく開閉させている。
 気休めと言う言葉通り、きっと彼女にはこんなものも効かないのだろうな。そう思っていた僕は、予想外の効果に呆気にとられた。
 これは、ひょっとしたら、彼女を本当に消せるのかも知れない。
 後は、彼女が居る角だけ。そう、彼女の足下に塩を盛れば、それで済む。
 僕は彼女の膝元にしゃがみ込んで、塩を構える。ふと、上を見上げてみた。彼女は、相変わらず苦しそうな顔で――泣きそうな顔で、初めて、僕を見た。その目は、僕に救いを求めているように見えた。
 助けて、助けて、と、彼女は僕に目線だけで懇願する。
 甘い。甘いよ。君は幽霊だろう。だったら、黙って成仏してくれよ。何だよ、その顔は。騙されないぞ、騙されないぞ。
 大体、お前のせいで僕がどれだけ苦労していると思って居るんだ。例えば、例えば、ええと。
 あまり、思い浮かばなかった。
 彼女は、なおも苦しそうに僕を見つめる。甘いったら。
 そして僕は立ち上がる。そして、他の角の塩柱を蹴り崩した。甘いのは、僕の方だった。
 いいよ、もう。そんな辛そうな顔されて、これ以上苦しめられるわけがないだろう。君の勝ちだよ、僕を取り殺すなり好きにするがいいさ。
 振り返り、彼女を見る。すると彼女は、いつも通りの無表情で、やはり何もない空間を見つめていた。
 僕はしばらく、彼女を見つめていた。
 苦しみから解放されて安堵するでもない、馬鹿な僕を笑うでもない。ねえ、君。君は一体、何がしたいんだい。そう問いかけても、彼女は何も言わない。
 ただ、一瞬だけ僕に、悲しそうな瞳を向けた。
 僕の心臓が、高鳴った気がした。
 そしてそれから、僕と彼女とのつきあいは、少しだけ変わった。
 朝起きると彼女に、おはようと言う。すると彼女は、少しだけ頷く。
 帰宅しても彼女に、ただいまと言う。すると彼女は、少しだけ頷く。
 ただ、それだけ。他の時は、何を言っても彼女は答えない。でもそれで充分だった。
 そしてそれは、僕が大学を卒業するまで続き、さようならと告げた僕に、彼女が寂しそうな目を見せてから、十年の後――
 俺は、人生のどん底にいた。
 骨を埋めるつもりだった会社は、実にあっけなく倒産した。そして、家族と一緒にやり直そうと思った矢先に、信じていた妻が余所に男を作って逃げた。俺の、貯金とともに。
 子供が居なかったのが幸いだったが――居れば、妻も逃げなかったかもしれないし、俺もこう自棄にならなかったかもしれない。
 まあ、仮定の話をしても仕方ない。金無し職無し家族無し、今住んでいるマンションは、とても家賃が払えそうにないから、さっさと引き払ってきた。
 今日も今日とて、なけなしの金で潰れるほど酒を飲み、閉店時間だと言う居酒屋の店員と喧嘩して追い出され、ふらふらと俺は歩いている。
 しかし、さすがに道ばたで寝る訳には行かない。春先とは言えまだ肌寒い、そうだ、家に帰らなければ。
 家か。俺に、帰る家など有ったか。
 両親は数年前に交通事故で俺を置き去りにした。仲の良い親戚なんてのも居やしない。友達はみんな連絡先が分からなくなった。
 俺は、自分がどれだけ孤独な存在で有るか思い知らされた。もう、俺の帰る家など、無いんだ。俺を待ってくれている人など、居ないんだ。俺みたいな情けない男が、何処に行くあてが有るだろう。
 しかし足は勝手に歩く。まるで本当の帰り道を知っているかのように。おい、俺を何処へ連れて行く気だ。
 だが、今となってはもうどうでもいい。行き先は無意識の足取りに任せ、俺は自分の人生をゆっくり思い出していた。
 缶蹴りの王者と言われた小学校時代。
 初恋の子と夏祭りを見に行った中学校時代。
 受験が近くなってもゲーセン通いが止められなかった高校時代。
 そして――
 どうやら、俺は目的地にたどり着いたようだ、ぴたりと止まる。
 俺はゆっくりと目の前に有る建造物を見上げる。やはり、ここか。
 そう、このアパートで、彼女と過ごした大学時代。
 どこにも灯りがともっていない。どうやら今はただの廃墟となっているようだ。
 有刺鉄線をくぐり、アパートの周りをぐるりと回る。ああ、この壁の傷は、ロック兄ちゃんがバイクで転んだときの奴だ。懐かしいな。管理人の爺ちゃんは、まだ生きているんだろうか。そう言えば、ここにたむろっていたトラ猫はどうしたろう。
 しばし、古い思い出にふける。あの頃の俺は、幸せだった。そう、とても、幸せだった。自分が幸せだと気づかないくらいに。
 さてと。
 俺は、慣れた足取りで今にも崩れそうな階段を上ると、かつて俺が暮らしていた部屋のドアの前に立つ。
 特に気負いも覚悟も期待も恐怖もなく、それがごく当たり前のことのように、ゆっくりとドアを開ける。
 そして、ただいま、と告げた。
 彼女は僕に優しく微笑んだ。


(終わり)

  
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