りんごの泪



 あてどもなくボクは夕焼けを彷徨っていた。
 見上げた空が余りにも綺麗だったから。赤く。紅く燃える太陽が綺麗だったから。心の奥から、何かが沸き上がるような、そんな、柄でもない感傷的な気持ちに囚われて、ボクは少しだけ、家に帰るのが勿体なくなったんだ。自転車を漕いでアスファルトを削る。籠に入れた今日の夕食ががこがこと揺れた。もっと赤を。もっと夕焼けが、間近に見られる場所へ。トタンで囲まれた工場の脇を抜けて、ボクは農道へと銀輪を走らせた。
「あ――」
 ボクは思わず声を上げていた。周りに、遮蔽物は何もない。今まさに、山の向こうへと消えてゆく太陽は、驚くほどにぎらぎらと赤い。真っ直ぐな光がボクの顔を照らす。目の前一面の紅。有り触れたものなのだけれど、今まで見たどんな風景よりも、それは凄くボクの心を揺らした。導かれるままに、歩く。柔らかい草をスニーカーで踏みしめ、土手を上ると、線路の横に出た。ああ、ここは、夕日の輝きに満ちあふれている。錆びたレールが赤く輝いていた。
 ここはどこだろう。
 ふとそんな、他愛ない、思春期の子供のようなことを、思春期未満のボクは感じてしまった。ひゅうと風が吹く。圧倒的な神々しさに包まれた空間が、そこを支配していた。
 がたん。がたんごとん。
 遠くから列車の音が聞こえる。あ、やば、とボクはさっと土手を駆け下りた。通る列車は貨物列車だった。黒く大きなその巨体はすっかり夕日を隠してしまい、ボクは単なるツマラナイ闇に包まれてしまった。
 ごとんごとん。
 鉄の塊がボクの前を猛スピードで走りすぎてゆく。上蓋が開いたコンテナの上には、何かが山盛りで積まれている。何だろう。赤いし、林檎かな。よく見るとそれは、総て、小さな少女達だった。
「え?」
 少女。紅色の着物を纏ったたくさんの少女が、貨物列車に積まれて運ばれてゆく。ボクの掌より少し大きいくらいの、小さな少女が。何これ。ボクが呆然としていると、その山の一角が崩れて、
「あ」
 一人、転げ落ちた。
「んっ!」
 ボクは足を踏み出していた。よく、分からないケド、あの子が落ちたら、きっと、大変だろうと思う。ボクがこんな、何かを気遣うなんて我ながら信じられないけれど、身体の衝動には逆らえない。落ちる少女は無表情で、何も分かってないみたい。スローモーション再生してるみたいに、ボクにはそれがよく見える。駆ける。間に合うか。手を伸ばす。ボクの手のひらの上に、ぽふんとした少女の重みが。掛からなかった。
「えっ」
 すぐ、手の先を、紅い少女が重力に引かれて落ちてゆく。ボクは間に合わなかったんだ。なんて愚かな。最初から、間に合うわけが無かったんだよ。見ない振りをして、逃げ出せば良かったのに。あの少女は、どうなったろう。視線を動かすと、土手に落ちた少女は、ころりと、転がり落ちた。そして、半身を起こす。きょとんとしていた。怪我をした様子は、無い。
 軽いと言う事は、そう言う事なんだなあ。
 なんだなんだ、もの凄く悔しさにまみれたボクがバカみたいじゃないか。でも少女は少しだけ目を回しているようで、ふらふらしている。
「おーい」声を掛けてみる。結い髪の少女は、こちらを見て、にっこり微笑んだ。ボクは肩の力を落とし、そこへ近づく。しゃがみ込むと、少女と目があった。
「えっと」だけど、それからの言葉が続かない。それはそうだ。こんな、現実を超えた存在を相手に何を話せばいいのやら。
「キミ、名前は?」
 イキナリ我ながら失礼だなと思うけど、とりあえずそれだけ聞いてみる。すると少女は一層微笑んで、
「林檎」
 小さな、鈴を転がすような声だった。
「林檎、ね」少女は頷く。しゃがんでいるのも腰が疲れてきた。ボクは少女を両手のひらですくって、立ち上がる。軽い重みが、なんだか楽しい。少女は、なんだかそわそわと落ち着かないようにきょろきょろしていたけれど、やがて慣れてきたのか、好奇心剥き出しの瞳でボクの掌をくすぐる。
「こら、やめろって」
 とがめるように息を吹きかける。少女はうわあ、と言った感じで手をばたばたさせ、後ろにひっくり返った。ボクは飽きもせず少女の一挙一動を眺めていた。いちいち何をするにも感情豊かで、楽しい。コイツ、こんな生き方で疲れないのかな、と思った。すると予想通り、少女は大きなあくびをした。眠いんだ。何だか可笑しい。少女は、ふと、じーっと見つめるボクの視線に気が付いたのか、見たの? と言う感じでこっちを睨む。見たよ、と言わんばかりに口元を歪ませると、少女はぅーと唸って小さくなってしまった。面白いヤツ。にしても、色々聞こうとしたけれど、どうもこの長閑な雰囲気に流されて、見つめるだけで時間が過ぎて行ってしまう。気が付くと辺りは赤から青へ、夕日はすっかり影も形も消えて、夜の闇がしんしんと降り注いでいた。しまった、お使いの途中だったっけ。保護者に怒られることは目に見えている。
「おい、キミのせいなんだぞ」
 と少女を見ると、呆れた、すうすうと穏やかに眠っている。はあ、と何度目かの溜息をこぼして、ボクは少女を買い物かごの中に入れた。パンの上だから、大丈夫だろうね。ボクはサドルにまたがり、自転車を発進させる。途中、起きた少女が身を乗り出したり、何度かヒヤヒヤさせる場面もあったケド、何とか家に付いた。ただいまと同時に少女を持ち上げて、買い物かごを投げ出すと、どたどたと自室に入る。あわただしい景色の移り変わりに驚いている少女を机の上に載せる。まさか、こんなのを保護者に見せるわけにも行かない。
「ご飯、持ってきてあげるから、おとなしくしてるんだよ」
 少女はこくんと頷いた。分かってるのかな、キミ。とてもおとなしくしてそうには見えなかったけど、ボクはともかく、部屋を後にした。その後がちょっとヤッカイで。一体この時間まで何処へ、とかの叱責が来た。何とかその場をやり過ごし、ご飯を食べ終わると、ボクは食器を片づける振りをして、少し残り物を失敬して部屋に戻った。
「ただいま」
 小声で挨拶。つまらなそうに机の上の鉛筆を転がしていた少女は、ぱっと顔を上げた。
「おとなしくしてたんだね。はいご飯」
 なんだかイヌみたいな扱いだけど、少女は不服はなさそうで、ことんと置かれたお皿に駆け寄る。添えて置いた爪楊枝を掴んで、ご飯粒をぱくり。本当に、美味しそうに食べるんだな。食べ終わると、ぱんと手を合わせて、お辞儀。れ、礼儀正しいなあ。ボクの方がかしこまっちゃう。ボクは、机の前の椅子に座って、色々と聞きたい事を聞く事にした。
「キミは、何処から来たの?」
 少女はほけっとした顔で、北を指さす。それじゃ分からない。
「地名とか」
 なあにそれ? って感じで少女は首を傾げた。ボクはうーんと頭を掻く。この子、何も知らないのかな。
「キミは、なんなの?」
「林檎」
 そーじゃなくてね。人間じゃあ、ないよね、と聞こうとも思ったけど、地名も覚えてないこの子がその質問に答えられるだろうか。ボクは悩んだ。そもそも、これからどうしよう。ずっとここに居させるって訳にもいかないし。それじゃあ保護者に相談しようか、いやダメダメ、ますますややこしくなる。ボク一人で、何とかしないと。何とか。とたぱたとたぱた。
「……」
 顔を上げると、飽きたのか、少女は机の上を走り回っていた。着物の裾を持ち上げて、邪魔にならないようにしているその姿は、まるで奔放なお姫様だ。ええい、ボクが誰の所為で悩んでるのか分かってるのか。人差し指で少女を突く。ぺちゃ、と派手にこけた。
「あ、ごめん、痛かったかな」
 心配は無駄骨。少女は何もなかったかのように立ち上がって、あっちへこっちへ、何かを見つけてはそれをぺたぺたいじる。
「はぁー」
 ボクは机に肘を突いて、窓の外を眺める。中天にかかる月。そして、
 ごとん、ごとん。
 貨物列車の音。ぴた、と少女の動きが止まる。一生懸命に背伸びをして、窓の外を眺めようとしているらしい。見かねたボクは、少女の襟首をつまんで、窓枠に腰掛けさせた。
 ごとんごとんごとんごとん。ごとんごとんごとんごとん。
 少女は息を殺して、音の鳴る方を見つめている。貨物列車の僅かな明かりが、一直線に夜を切り裂いていく。
 ごとん、ごとん、ごとん。
 やがて音が聞こえなくなると、少女は今度は窓枠から身を乗り出した。
「うわ」
 ボクは慌てて捕まえる。少女は空中に持ち上げられてじたばたしていた。机の上に運んでやると、少女はまた、わきゃわきゃと駆け回り始めた。落ち着いてられないのか、キミは。少女は本当に楽しそうな笑顔だ。でも、ボクは見たんだ。貨物列車の音が聞こえてきたとき、窓を見つめる少女の顔が、深い悲しみに曇っていた事を。

 次の日。夕焼けは今日も赤い、紅い。ボクは、クッションでぎゅうぎゅうにした自転車の籠に少女を乗せて、あの土手に来ていた。きっ、とブレーキを掛ける。ここに来て、どうなるとも思えない。でもボクは、少女のあの悲しい表情を見たときから、こうする事しか、思い浮かばなかった。まだ、貨物列車は来ない。ボクは、少女を手の上に載せる。巨大な夕日が、空を埋め尽くす。少女も圧倒されたのか、ぽかんと口を開けて、その光景を見つめていた。と。
 がたん、がたん。
 来た。貨物列車だ。今日は、どのコンテナも閉まっている。と、少女が、ボクの手の上で立ち上がった。ぴょこん、とボクの方にお辞儀をする。え、何を。と、思う間もなく。
 少女は、前を向いて。
 たん、とボクの手を蹴った。
 がたんがたんがたんがたん。
 列車がごうとボクの目の前を通り過ぎてゆく。髪の毛が揺れた。手にはもう、何の重みも感じない。
 ボクは髪の毛を押さえて、列車を見送る。彼方へと走り去る列車。その最後尾から、少女が笑顔で手を振った、気がした。



(終わり)
 
 絵と原案 桜塚さん



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