ノスフェラトゥの悲嘆


 遠くで夜啼き鳥が唄っている。
 山の夜は静かで寒く、そして穏やかだ。僕の持つ一条の光が、濃密な闇を切り裂く。
 とっくの昔に道など見失い、方向感覚などまるで頼りにならない。僕は、生い茂る木々をかき分けて、ただ緩慢に歩を進める。
 遭難したときはその場に留まっているのがセオリーとは知っていたが、僕の小さな背中を押す満月の哄笑がそれを許さない。
 誰が止まってなどやるものかよ。僕は進まなければならない。そして辿り着かなくてはならないのだ。この僕が命を絶つにふさわしい深遠なる場所へ。
 出来れば数千年の歴史を刻んでいる巨木の根本や、人間の汚い視線に晒されていない秘された滝の飛沫掛かる場所が良い。僕は太股に括り付けた大仰なナイフをぐいと握りしめる。
 死に理由などは要らない。必要なのは儀式的な死に方だ。
 この残酷な世界に生きていることにどんな意味が有るというのだろう。人生など苦痛の連続であり、考えても考えてもその末路は死に辿り着く。
 人が生きている上で唯一の幸せは、死が自由であること。ならば僕が死ぬのは必然。生きているお前達が間違っているのだ。
 首筋から鮮血を噴き出して、祝福された僕はこの大地と一体になる。それは何と甘美な誘惑だろうか。
 ああ、僕は死するために生きている。山に潜む猛獣よ妖怪よ、この僕を畏れろ。
 それにしてもいつになったらその場所へたどり着けるのだ。目に映る景色は延々変わらない退屈な眺めのままだ。
 いい加減に足も疲れてきた。酸素の濃度が薄いせいか頭も朦朧としている。
 ひょっとしたらこのまま倒れてのたれ死んでしまうのかもなんて想像もふと頭をよぎる。
 それは実に恐怖すべき事実だ。そんな威厳も儚さも、情緒も何も微塵も無い死に方など最悪に等しい。負けるものか。僕は力強く地面を踏みしめる。
 途端に身体が浮遊感に包まれた。
 いやこれは浮遊しているのではない。滑った。そして落ちている。
 落とし穴か。いいや違う、穴は暗く深く奈落までも続いている。きっと洞窟か何かだろう。
 光差さぬ洞穴の奥で自害と言うのもそれほど悪くはないが、やはりどうもしみったれていてそれは嫌だな。
 出来ればもっと清冽な空気漂う場所を僕は望む。そうだこの奥に何か綺麗な泉でも湧いていたりはしまいか、さすれば僕の願いは成就するというのに。
 ところが予想に反して、大きく尻餅をついた僕の目の前に拡がっていたのは極彩色の空間だった。
 僕はあんぐりと口を開け、目を見張る。
 これは一体何の冗談だろう。洞窟の奥にどうしてこんな空間が。
 目が慣れると、それは巨大な建造物であることが判明した。宮殿。そう呼ぶのがまさにふさわしい。
 地中海沿岸にそびえる大神殿を思わせる造りに、そこかしこに鏤められた色取り取りの宝石たち。
 地面には綺麗な芝生が敷かれ、天井からはうっすらと優しく温かい光が放射されている。
 ここはシャンバラか、はたまたエルドラド。
 山の中をそっくりくりぬいて存在しているかのようなこの広大な隠れ里を目の当たりにして、僕はすっかり目的など忘れていた。
 それでは中にお邪魔してみようかなんて発想は到底生まれてこなかった。
 煌びやかな閃光が僕という卑小で汚らしい存在を阻んでいる。指先一つでも動かせば、僕はあっと言う間に異物として排除されてしまいそうだった。
 壁に柱に屋根に、無造作にしかし計算し尽くされて配置されたダイヤモンドアメジストルビーサファイヤ名も知れぬ宝石の数々、諸々。
 街の宝石屋で売っている小さな欠片など、歯牙にも掛けぬこの豪華さよ。全て売ったらいくらになるだろうなどと言う発想の次元を遙かに超越した、無数の稀少石の煌めきが僕の全身を刺し貫く。
 しかしふと僕は気が付いた。この絵面は、妙に調和が取れていない。何か一色だけ欠如している気がする。そうだ碧だ、エメラルドだ。
 有りとあらゆる光が存在するこの場所に、唯一碧だけが欠けている。何と勿体ないことだろうか。それともこの宮殿の主は何らかの意図をしてそういう意匠にしているのだろうか。
 どれくらいの間そうしていたろうか。僅かに空気がそよいだ気がした。
「おや。お客様とは、珍しい」
 大理石の床をブーツで鳴らし、神殿の奥から人影が現れる。それは意外にも、厳粛な老人や、髭面の紳士などではなく、華奢な体躯の少女だった。
 年の頃は僕より少し下くらいであろうか、だが身に纏う雰囲気は遙かに年長者の威厳を持っている。
 闇色のマントを羽織り、肘まで伸びたレースの手袋をしている。そして、少女の長い髪の毛は、とても見事な碧だった。
「ここに迷い込まれたのかしら。さあ、そんなところで座っていないで、こちらへおいでなさい」
 少女が神殿の入り口に立った途端に視界の全てが完璧な調和を見せた。
 前屈みになった少女が手を伸ばす。僕はその手を握り、石のように冷たい彼女の指の感触を受け止める。
 そして僕は少女に導かれるまま胡乱な足取りで宮殿の中へと招かれてしまった。

 門を潜ると、天上での寵愛を一身に受けていそうな女神像が、抱えた水瓶から清浄な水を大理石の池に注いでいた。
 池の底には夜空を模した絵が描かれていて、そのほかに余分なものは一切無い。注がれた水は何処までも透明で、まるで泉に映る星空を眺めているような気分にさせられる。
 ふと一瞬、この池を僕の血で染めてみたい気分になり、ナイフにそっと手を忍ばせる。
 すると僕の手を握ったままの少女の手に力がこもった。彼女は振り返って言う。
「駄目ですよ」
 溌剌とした笑顔で、覗き込まれるようにそう言われた僕は、何も出来やしなかった。だからと言って、彼女の笑顔が僕に対して命の尊さやら人生の楽しさを説くものであった、などと愚劣で陳腐なことはなく、単純に、彼女の笑顔には僕を制止せしめるだけの威圧があったと言うだけだ。その証拠に、彼女は続いてこんな事を言う。
「或いは良いのかも知れないけれど。でも、機会は一度きりですから、それは最後の手段にしましょう」
 最後の手段は最期の結果。何を言っているのかはよく分からないが、僕の行為を是認してくれているようなその言葉を受けて、僕は彼女に多少の好感を持った。
 ホールの床はつるつるに磨き込まれており、まるで鏡面のように僕の顔を映し出している。普段で有れば足を着けるのもためらわれるような見事さであるが、少女が僕の手を引くため否応なくその上を歩かされている。
 こつこつとブーツを鳴らして少女は僕を連れて歩く。池の背面には次の部屋へと続くのであろう巨大な扉があり、彼女はその取っ手を握るとゆっくりと押した。木製の大扉は、果たして僕が予想していたような古めかしい軋みなどは立てず、ただ静かにそっと開いた。
 展開された間には真っ赤な絨毯が敷き詰められていて、はるか前方にはなにやら煌びやかな玉座のようなものが見える。ふと上を見上げると、見たこともない大きさのシャンデリアがさながらSF映画に出てきそうな人工太陽の如く輝いている。いい加減に驚きにも慣れた僕は、それでも十分すぎるほどこの雰囲気に飲まれつつも、多数の彫像に囲まれた絨毯の回廊を進む。
 玉座の前まで来ると、彼女は僕の手を離した。ちょっとした喪失感が僕を苛んだ気がした。錯覚だと思いたい。
 そして彼女はさも当然のように玉座に腰掛ける。気怠げな仕草で僕を改めて見つめる彼女からはこの空間の支配者然とした雰囲気が感じられ、微塵の反逆も許さない厳然たる王者の風格がそこには有った。
「さて。あなたには私の頼みを聞いていただきます」
 一切の人間らしいコミュニケイトを否定し、彼女はまずそう言った。ますます好ましい。しかし、如何に彼女が支配者であり僕が逆らえそうにもないとは言え、この僕如きのような世界から排除されかかっている人間に何かを頼むのはお門違いではなかろうか。そう問うと、
「いいえ誰でも良いのです」
 いいえあなたでなくてはなりません、とでも言ってくれれば僕も男だ、少々奮起しなくも無かったかも知れないのに。この主人はどうやら嘘が嫌いであるらしい。
「私は、美しいものが好きです」
 彼女は僕を無視して滔々と語り始めた。
「古今東西、ありとあらゆる美を私は蒐集して来ました。ですが、いつの頃からか、目に見えるもの全てが灰色に染まってしまったのです」
 そう言われて僕は周囲を見渡した。極彩色の宮殿。確かにこれが全て灰色であるとするならば、その価値は激減するに違いない。
 しかし、灰色に見える、と言われると、即座に思いつくのは眼病の可能性なのだが、僕は口をつぐんだ。
 彼女が、そんなものに、掛かるはずが、ない。そうだろう?
「元々灰色だった彫刻などは、見る限り何の変化も無いようでしたが、私にはもう、美しいと思えなくなってしまいました。今の私は、何を見ても美しさを感じられないのですよ」
 美しさを感じられなくなる。さてそんな感覚が有るのだろうか。さりとて僕にそれが実感できるはずもなく、怒濤のような美の洪水にまみれたこの場所で、黙って彼女の話を聞くことにした。
「あなたにお分かりになるかしら? 美しきものを求めることが幸せである時代は終わった。今の私にはそれが単に苦痛でしかないのです」
 そう言って主人は厭世的な笑みを浮かべる。
「そこであなたにお願いをしましょう。私に、美しいものを、見せて下さい」
 僕に拒否権が無いのは言うまでもないことだが、何ともそれは、途方もない難問だ。
 先ほど彼女が行った言葉が事実であるならば、何を見せても彼女は満足しないだろう。それにこの御殿にはその美しいものが溢れている。彼女の目が貧相な故に美しさを感じられないのではない。肥えすぎているのだ。
 悩んでいると、彼女は自分のペースで話を進める。
「私は余りにも長く生きすぎました。もう、とっくに滅んでも良いころですし、私自身もそれを望んでいます。ですが、私がこの世に存在する至上目的、すなわち美の追究を、こんな形で諦めたくはないのです」
 そこまで言って、彼女は僕に向き直り、立ったままの僕を見上げて睨め付けた。
「つまり、死するにしても私は美しいものを見てからにしたい。この気持ち、あなたになら分かって頂けるのではなくて?」
 それはもう。分かりすぎるほどによく分かる。
 ただ、僕と彼女には微妙な差異がある。僕の目的は死。美しき死。彼女の目的は美。死するほどの美。
「あなたにはお部屋を一つあてがって差し上げましょうね。何か、望みのものが有れば何でもおっしゃって下さいな」
 そこまで言うと彼女は優雅な仕草で立ち上がり、僕の頬を撫でた。僕は身じろぎ一つ出来ない。
 僕と彼女の身長はほぼ同じくらいで、目線がぴったりと交錯する。
「それから。あなたの目的は分かっています。でも、私の望みを叶えてくれてからでないといけませんよ。私、許しませんから」
 許さない、と言われた。死すらも許さないとは滑稽な話に聞こえるが、彼女はそんなものすら超越しているのだろう。僕は黙って頷いた。すると彼女は満足げに笑う。
「よろしい。私の部屋はここです。何か有れば尋ねてきてくださいな」
 彼女はそれだけ言って玉座の後ろのドアに消えた。僕は一人取り残される。
 そう、一人だ。ここには、僕以外に一切の生の香りがしない。彼女は、ずっとここに、一人きりだったのだろうか。
 あまりにも孤高であまりにも完璧。碧色の艶髪に白い肌、紅玉のような瞳。
 彼女自身こそ美しさの権化ではないのだろうか。僕がそんなことを思っていると、ふと、彼女の部屋のドアが開いた。
「御免なさい。あなたのお部屋に案内するのがまだでしたね」
 そう言って彼女は照れ隠しに可愛らしく笑う。ああ、完璧でないことすら完璧だ。

 それから僕の試行錯誤の日々が始まった。
 大体において、僕は美術芸術とはとんと縁のない生活を送ってきていたのだ、難航して当然である。
 差し当たって館の中を徘徊し、自身のセンスを磨くところから始めて見た。
 しかし、彼女の美術品蒐集は凄まじく広い範囲にわたっており、見たこともないような異教の神像やら、大寺院に安置されてそうな仏像、果てはサタニストが泣いて喜びそうな禍々しい黒ミサの部屋まで、時間空間を問わず美しいものがいくらも置いてあった。
 そして僕が驚いたのはオーディオルームの存在だ。あれほど巨大なスピーカーは見たことが無かった。
 その部屋の隣には多種多様な楽器の倉庫もあり、彼女は音楽すらも極めているようだ。なるほど音楽も美の一種と言えるな、と、僕自身が感心してしまうほどであった。
 食事の時間になると、彼女は僕を呼びに来る。
 誰が作っているのかは知らないが、多種多様な料理がテーブルの上に置かれていた。
 ある時はフランス料理のフルコース、ある時は懐石料理、ある時は満願全席。美食とは良く言ったものであり、この点においても彼女の嗜好は僕の想像を遙かに超えていた。
 ともかく、僕は、彼女に美しいものを見せるどころか、自身が圧倒されてばかりだったのだ。
 当初は、彼女の雰囲気に押されるまま始めた行為だったが、今となってはもう違う。
 僕が求めるのは、美しい死。このまま、彼女の希望を放っておいて死ぬのは、あまりにも潔くない。
 彼女さえ満足させられれば、僕は何の気兼ねもなく、あの大理石の広間で、胸を一突きにして果ててくれよう。
 僕の死せる姿で美を表現するというのも考えたが、これで彼女が美しさを感じなければ話にならない。
 僕だって、そんな有耶無耶な結果にすがって、未来への一縷の希望を託しながら命を絶つのは御免被りたい。
 さて。子供の絵こそ真の美などと言った芸術家を殴ってやりたい衝動に駆られつつ、僕は彼女の部屋を後にして、自分で描いた稚拙な絵を破り捨てた。
 この間は、美しいのは貴女自身だ、と気障な台詞を口にしたら、首を傾げた彼女にそうですねと言われた。
 彼女ほどともなるとナルシシズムに陥らない程度に自分の美を認めているのだろう。全く、八方ふさがりとはこのことだ。
 何を考えても、美しいものが思いつかない。この宮殿に思考を限定させず、広く一般にもそれを求めたが、それは彼女との夕食時の会話ですんなりと否定された。
「ご存じですか? 日本がオリンピックで史上最多の金メダルを獲得したようですよ」
 仔牛のステーキを口にしていた僕の咀嚼が止まる。何でそんなことを知り得るのだろうかあなたは。
「あら。だって、見てましたもの」
 そう言われては返す言葉もない。事実かどうかはともかく、そう言う世界的なイベントで彼女に美しさを感じさせるのは無理なようだ。
 僕はふと疑問に思って口にした。あなたは、女神か何かなのではないか。
「私がですか? ご冗談を。私はそう呼ばれるような存在とは対極に位置するものですよ。もっとも、あなたにとって絶対的な存在を神と呼ぶのであれば、近しいのかもしれませんけれども」
 よく、分からない。だけれども、彼女の偉大さだけは身に染みた。
 するとバベルの図書館やアカシックレコードなどはどうなのかとからかいがちに聞いてみるも、
「はい。良く存じておりますよ」
 と言われ、僕は実に呆気にとられる他なかったのだ。

 僕は自室のベッドに寝ころびながらうんうんと唸る。唸っても何の解決もしないのは分かっているが、それくらいしかすることはない。
 無理だと告げるのはあまりにも格好が悪い。幸か不幸か、彼女はじっと待ってくれている。そんな彼女の期待を裏切ることは、どうしても出来なかった。
 考えろ。何か、他の方法は無いか。僕のそう長くはない今までの人生を振り返って、記憶の奥底から何かを導き出せ。
 母の顔。近所の野良犬。真新しいランドセル。桜の花。夏休み。
 そうだ。
 僕は思いついて、ベッドから跳ね上がり、彼女の部屋へ向かった。
 ひょっとして、これならば。彼女を満足させ得るかもしれない。
 僕の脳裏に浮かんでいたのは夏休みの宿題で育てた朝顔の花だ。自分で育てた花が咲き誇りそして一夜のうちに枯れて行く、永遠ではなく一瞬の姿こそ、彼女に美しさを感じさせられるだろう。
 絨毯を乱暴に踏みしだきながら、ドアをノックする。無音だ。
 不作法かと思いつつもノブを回してみると、さて中には誰も居ない。
 そう言えば彼女の部屋の中は初めて見たが、何とも質素な造りで、欧米の民宿とはこんな雰囲気なのかななどと思わせた。
 板張りの床は古めかしく、大きなドレッサーと化粧台、それに姿見とこぢんまりしたベッドが置かれている。他には目に付くものは何もなく、広さも六畳程度だ。
 お世辞にも立派とは言い難く、これならば間借りしている僕の部屋の方が立派に思えた。
 しかし、女性の部屋をじろじろと観察するのも不作法だ。それに、背後から突然、見ましたねなんて言われては心臓が止まりかねない。僕はドアを静かに閉じた。
 さて彼女は何処に居るのだろうかと首を傾げていると、足下に何か紙が落ちているのに気が付いた。
 何かと拾い上げると、屋敷の裏に居ます、と、達筆な文字でそう書かれていた。紙の裏には糊の感触。どうやらドアに張っていたのが落ちてしまったらしい。
 屋敷の裏、か。僕は声に出して呟いてみた。
 そう言えば屋敷の中ばかり散策していて、裏には一度も回ったことがない。僕はメモを握りしめて玄関を開け、裏に回ることにした。
 確かに、改めて正面に立ってみると、宮殿の両サイドに道が延びている。僕はその、壁と岸壁との狭間にある細い通路を通り、広い空間に出る。
 そこで僕は言葉を失った。
 咲き誇る、色取り取りの薔薇。
 白薔薇、赤薔薇、黄薔薇。青い薔薇なんてのも有るのか、初めて見た。
 その薔薇園の中心で、彼女はじょうろを手にして薔薇に水をやっていた。
「あら、こんにちは。何かご用かしら?」
 用は無くなってしまった。
 立ちすくむ僕の心を見透かしたように、彼女は水まきを続けつつ、呟き始める。
「花の美しさは一瞬と言われてますけど、咲いて、枯れて、種になって。それを蒔けば、また芽が出るのですよ」
 ああ、それすらも永遠の輪廻のうちなのか。僕は自分の浅はかさを悔やんだ。
「そんなに悲しむことはありません。唯一花だけが、ごく希に、ほんの一瞬だけ、私にも色を見せてくれるのですから」
 ほんの一瞬?
「ええ。百年掛けて百万の薔薇を育てて、その中でたった一輪だけ、私にあらと思わせてくれるものがあるのです。もう一度見ると、それはもう灰色の雑草なのですけれどもね」
 彼女はその一瞬にすがってこの薔薇全てを育てているのか。
 僕は、ここに来てようやく、彼女の懊悩の深さをかいま見たような気がした。
「せっかくですから、もう少し、お庭でも見ていきますか」
 じょうろを水場に置き、彼女は僕を手招いた。するべきことを見失った僕は、素直にそれに従う。この極彩色の宮殿には、さらなる美が隠させているのだろうか。
 僕の予想は正解する。ツタの絡む裏門を開けると、そこには深山幽谷が拡がっていた。
 確か、ここは、山の中であったはず、などと考えるのはもう止めにした。ここは山中異界、隠れ里なのだ。
 いくつもの山々が霧の中に山頂だけを浮かべている。足を踏み外したら助かりそうもない崖に、一本だけ頼りない吊り橋が掛かっている。そしてその奥には、みすぼらしい庵が結ばれていて、両横に梅の花が咲き乱れていた。
「如何ですか」
 僕は自分が日本人であることを全く再確認させられてしまった。僕の視神経に訴える全てが、この館で出会ったあらゆる美よりもよほど強く美しさを主張していた。
 何も主張しないが故の主張。押しつけるのではなく引き込むと言う美。
 これほどまでに見事な景観は見たことが無い。いや、この日本中で、歴史をひもといたところで、この景色ほど素晴らしいものを見た人物がどれだけ居るのだろうか。
 ここにあって彼女はさらに美を求めると言うのか。
「気に入って下さいました?」
 彼女の言葉が耳に遠い。彼女を満足させられないと言う確信にも似た絶望。そしてこの幽玄なる風景。
 僕は衝動的に何もない空間へ向けて足を一歩踏み出した。ゆらりと、上半身が傾く。
「危ない」
 気が付くと、僕は、彼女に足首を掴まれて宙づりになっていた。そして、少女とは思えない力でもって、彼女は僕を引き上げる。
 ぼんやりと立っている僕の胸に、何かやわらかいものが押し当てられた。彼女自身だ。
「駄目だと言ったではありませんか」
 僕は素直に、ごめんなさいと謝った。

 その夜はなかなか寝付けなかった。
 僕には無理だと言う諦念と、彼女の感触の甘美さがない交ぜになり、睡魔の到来を寄せ付けない。
 寝返りをうつと、ベッドサイドに誰かが立っていることに気が付く。
 彼女だ。
 漆黒のゴシックドレスに身を包んだ彼女は、僕が起きていることを承知で、枕元に佇んでいた。
 そして、ゆっくりと身をかがめて、僕の顔を覗き込む。
「かわいそうな人。私のせいで、理想の死を迎えられない。だけれど、あなたを中途で失うのは我が儘な私が許さない」
 真紅の瞳は熱っぽく潤み、僕をじいと見据えて離さない。
「いっそのこと、このまま、絶望に満ちた永遠を過ごしませんか? 私とともに、永久を退廃的な闇の中で過ごすのも、楽しいかもしれませんよ」
 僕が諦めたように、彼女も諦めているのかもしれない。僕は美しい死を諦め、彼女は死する美を諦める。
 それはとても、蠱惑的な誘惑だった。この空間であれば、僕も生きていることに苦痛はない。
 彼女の唇から、大きく尖った八重歯が覗いている。妙に蒸し暑い夜の闇のなか、それは真珠色に妖しく光っていた。
 彼女の顔が段々と僕に近づいてくる。吐息が僕の鼻をくすぐった。
 しかし僕は、手を伸ばして、彼女を押し戻した。
 死を望まない僕などは僕ではない。僕は僕として、君に美しいものを見せたいんだ。そう、決然と告げた。
 闇の盟主は少し意外そうに目を丸くして、そしてうっすら微笑んで身を引いた。
「それは、とても楽しみなことを聞いたわ。まさか私が拒まれるとは予想外でした。あなたなら、きっと、私を満足させてくれそうですね」
 それだけ囁くと、彼女は足音もなく歩き、部屋から出て行った。僕は静かに目を閉じる。
 ここで簡単に眠れてしまえば或いは夢かとも思えるのだけれど、生憎先ほどの現実感が僕の身体を熱っぽく苛んで、そのままに夜は明けてしまった。

 僕はこの屋敷の中でどのくらいの時を過ごしたろうか。おそらく一ヶ月くらいだとは思うが、明確に記録していたわけではないので朧気だ。
 とはいえこの空間に居る限りはそんなことを考える必要もないので、このくらいかなと思う程度にとどめておく。
 それにしてもこのところ不穏なのは、僕の中から死への憧憬が薄らいでしまっていることだ。
 いや、胸に手を当ててみると、それは相変わらずそこにある。ただ、それ以上に、彼女を満足させたいと言う思いの方が強くなってしまっていた。
 目的と手段が逆転したのかもしれない。僕も安っぽい男だから。
 或いは、ひょっとして。僕はある可能性を思い描く。
 まさか、と否定したい。だが意固地になってその感情を否定するほど僕も子供ではない。
 また、同時に、僕が彼女に抱いているこの感情こそが、ひょっとして彼女に美を感じさせるかもしれない。
 いや、この感情をそんな目的意識に置き換えてしまって良いものだろうか。だがこの目的有ってこその感情であるわけだから。
 思考が螺旋を描き出し、僕は唸る。考えていても埒があかない。
 僕は死にたい。美しい死を求める。
 君は美しさを求める。そして死ぬ。
 だけれども、もし君が僕を受け入れてくれるのならば、ともに永遠を過ごすのも悪くは無い。きっと。
 さて。
 行為に移すべき時間を選ぶのは、度胸が無い者の言い訳にすぎない。今こそが最大限の機会。
 僕は部屋を出て、謁見の間へ向かった。彼女は、玉座に腰掛けて、つまらなそうに髪の毛を弄っていたが、僕の姿を認めると、きちんと居住まいを正して向き直った。
「あら、そんなに息を切らせて。どうしました?」
 本人を目の前にすると、なかなか言葉が出てこない。
 死への覚悟はとっくに出来ている僕が、こんなところで躓くなんて。
 いや、死などは生きていることの苦痛からの逃避。そして、今の状況こそ、僕が最も忌み嫌う生の苦痛そのものではないか。
 だがもう後戻りは出来ない。残念ながら僕はまだ生きている。生きていると言うことは前に進むしか出来ないのだから。
「僕は君が好きだ」
 明朗とは甚だかけ離れた声で僕は告げた。石造りの空間に、少しだけ、僕の声がこだました気がした。
 主人が反応する前に、僕はたたみかける。
「僕は君を愛している。好きだ。何よりも美しいあなたが、僕は、とても好きだ。僕は僕として、君を、愛している」
 彼女は何度も瞬きを繰り返している。僕は最後に、こう問いかけた。
「そんな、僕の気持ちは、醜いだろうか?」
 彼女は、黙り込んでしまった。僕を見たまま、動こうともしない。
 そして僕自身も動けない。さあ、早く、何か言ってくれよ。僕が今こうして受けている苦痛が想像できないほどに君は鈍感ではないだろう。
 何をしているんだ。僕のこめかみに脂汗が流れる。これが僕の結論だ。君の要望に対して、僕は精一杯の誠意を見せた。
 次は君の番だ。下らないと嘲って、僕を世俗に追い出すなり、早くすればいい。さあ、さあ、さあ。
「醜い、だろうか?」
 耐えきれなくなって、僕はもう一度呟く。するとようやく彼女は言った。
「いいえ、美しいわ」
 彼女は立ち上がり、僕を正面から抱きしめた。
 柔らかく甘い香りがする。
「ありがとう。ありがとう。こんなにも美しさを感じたのは初めてです。あなたの真摯な気持ち、確かに受け取りました」
 ああ、この感覚。何だろう? 安堵? ともかくにも、僕は今、満たされている。
 ちらりと彼女の横顔を盗み見る。彼女は泣いていた。
「あなたに言われて、私も気が付きました。これが、愛すると言うことなのですね。好きよ、私も」
 世界の果てにある、水晶で出来たパズルが今完成した。
 これで、良かったのだ。そしてこのまま、僕は彼女と添い遂げる。それで美しさは完成し、何よりも堅固な永遠が誕生する。
 美しい生。生きる美しさ。僕たちは、最初から、方向を誤っていたのかもしれない。
 冷たいとしか思えなかった彼女の肌から、確かな温かみを感じる。エメラルドの髪がふわりと揺れた。

 だが、悲しいことに、僕と彼女の思惑は、必ずしも一致しなかった。
 背中に回された腕から、力が抜けてゆく。驚いて目を見開くと、彼女の身体は、うすらぼんやりとしだして、背後の玉座が透けて見えていた。
「お別れです。最後にこんな美しさを感じられて、私はとても幸せです」
 待ってよ。それでどうして君が消える必要が、死ぬ必要があるんだ。
 このまま生き続けてこその美しさではないのか。違うのか。永遠に愛し合うことは美しくないのか。
「いいえ。永遠なんて有りませんよ。その証拠に、ほら、私もこうして死んで行きます。それに、最大限の美しさの中で消えることのほかに幸せがあるでしょうか」
 永遠の美を見定めるためには自身も永遠でなくてはならない。そして彼女は自分が永遠ではないと言った。
 ならば求められるのは有限の美。終わりゆく美。
 花は枯れる直前に最も咲き誇る。
 僕と君の間の愛が美しいならば、その愛が終わるときこそが美しい。悲恋にのみ許される凄絶な美。すなわち、彼女が消え去りゆく今こそが。
「気づいていただけましたか。私が消えてこそ、美しさは完成するのですよ」
 冗談じゃない。僕どころか、君自身さえも、美しさのパーツであると言うのか。
 そんなものは認めない。きっと他に何か良い方法が有るはずだ。きっと、他に、何か。何かが。
 僕がどれだけ叫んでも、彼女の身体は薄れゆくのみで、もう二度と抱きしめることもできない。
「ああ、なんて美しいのでしょうか」
 こんなものが美しくあってたまるものか。君を失うなんて、これほどの苦しみはないと言うのに。
 僕が悲しめば悲しむほど、この物語は美として完結する。
「それでは、ありがとう、さようなら。愛しいあなた」
 最期に残酷な言葉を残して彼女は完全に消滅した。
 取り残された僕は静寂の中で崩れ落ち、何もすることができない。
 このまま、ただじっとしていれば、意識がとぎれて死んでしまえるのだろうか。
 いや死ぬためには動かなければ。そうだ動かなければ。動かなければならないではないか、僕は。
 ああ、僕は死するために生きている。
 僕は主を失った屋敷の中を徘徊し、油を見つけ出した。ああ、素晴らしい。さすがに彼女は破壊の美も分かっていて、爆薬まで用意してある。
 要所要所に爆薬を設置して、油をふんだんにばらまく。もちろん、裏庭の薔薇園と庵にも忘れない。
 念のために、薔薇園から吊り橋を経由して庵まで太い縄を通しておこう。導火線だ。
 有り難いことに油はいくらでもあった。僕は彼女に感謝する。
 彼女の部屋は特に丹念に油で浸した。ドレッサーの中から彼女の衣服を引っ張り出し、一着ずつ油を掛けていった。
 さて準備は整った。僕は一番最初に心惹かれた噴水の前まで行く。
 噴水の中には少々飛び散った油が浮いていたがそれも一興と諦めることにした。何しろこれから油まみれの僕が入るのだ。
 水音を立てて僕は足を入れる。なかなかに冷たい。それにしても、水が流れる音と言うのはいつ聞いても良いものだ。
 僕は目を閉じて天を仰ぐ。では、終わりを始めよう。
 やはりこういう場面はマッチでないといけない。僕は先んじて物置から拝借してあったマッチを擦り、適当に投げた。
 一瞬で拡がる炎。
 灼熱に照らされ、石は焦げ、木は燃焼する。熱さは感じるが、僕は噴水のおかげで燃えてしまうことはない。
 何もかもが炎に飲み込まれて消えていく。爆薬が炸裂する音がそこかしこから轟き出す。ただ心を満たす破壊の炎。
 最高だ。実に、最高だ。
 今頃薔薇園も庵も、梅の木も吊り橋もオーディオも図書館も彫像も魔法陣も食料も全てが燃えてしまっている。
 そして僕自身もいずれ燃えるだろう。燃えてしまわないのは、亡骸すら残さなかった君だけだよ。
 紅蓮の炎が僕の周囲をぐるりと取り囲んできた。柱が大きな音を立てて崩れ始める。
 僕は基本的に轟音は嫌いなのだが、このときばかりは最高のハーモニーに思えた。
 さあそろそろ潮時だ。
 僕はズボンを探り、始終大事に持っていたナイフを握る。何のためらいも無い。先刻の告白の方がよほど恐ろしかった。
 完成させるのは君なんかじゃない、僕自身だ。ナイフを握った手に力を込め、一突きに心臓を抉る。
 単純な衝撃だけが僕を貫いた。ああ、目の前が赤い、紅い、朱い。
 素晴らしき終局のこの場面。ああ、とても、美しい。
 君はもうすでに退場してしまった後だ。
 意識が遠くなってきた。僕はこの終末の美しさを構成して果てる。君を喪失した僕が構成されているからこその、僕自身が体験しうる最高の美しさ。
 滅ぶ世界のなんと美しいことか。君は結局この美しさを見ることは出来なかったわけだ。
 僕は嗤う。いい気味だ!


(終わり)

 
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