眠り姫



「看護婦さんよぉう。あの話は本当なのか?」

 俺の隣のベッドで、大柄な男が検診に来た看護婦に尋ねる。

「だーかーらーっ。何度言ったら分かるんですか、アレは噂ですよう」

 眼鏡を掛けた看護婦が、男の言葉を気にも留めないようにすらすらとカルテに何か書いている。

「そーそー。あんなのただの噂だってばさー」

 もう一人、溌剌とした雰囲気の看護婦が、男の禿頭をぴしゃぴしゃと叩く。

「お、おおうっ! オレァ怪我人なんだぞっ!? もうちっと丁重に扱えいっ」

「むむっ。怪我人なら怪我人らしくおとなしくしてて下さいよぅーっ」

「全身骨折してるのになーんで動き回ったりするかなー?」

 看護婦は、腰に手を当てて、やれやれと言った表情を作る。それでも、目はどこか愉快そうだ。

「全く、身体がなまっちまうぜぇ……」

 ぶつぶつ言いながら、男はおとなしくなる。

 ここは、総合病院の、白い壁に囲まれた一室。

 そっと隣をのぞき見ると、いかにも強そうな、厳つい顔をした男が憮然とした表情で目を閉じている。

 恐らく喧嘩でもしたのだろう、全身に巻かれた包帯が痛々しいが、当人は全く弱気なそぶりを見せない。

 しかし、こんな男でも見舞いに来てくれる人はいるのか、側の花瓶には綺麗な花が活けられていた。

「それじゃ、お大事にねー☆」

 ひらひらと手を振りつつ、元気にそう言って、看護婦達はドアから姿を消した。

 噂。

 そう、噂だ。

 つい先ほど、男が看護婦と話していたこと。

『この病院には開かずの部屋があり、そこでは少女がずっと眠り続けている』

 話だけ聞けば、全く荒唐無稽な、ただのうわさ話だ。

 俺も、転んで足を折ると言う間抜けなミスをして、ここに入院するまでは、そんな話は聞いたこともなかった。

 勿論、聞いたところで、信じるわけはない。

 しかし、その噂は、決して消えることはない。

 真実として、延々と拡がり続けている。

 何故か。

 答えは簡単だ。

 夜な夜な、聞こえるからだ。

 ――少女の、すすり泣く声が。

 足に痛みは、もう無い。ギブスも外れている。もうそろそろ、退院できるだろう。

 俺は目を閉じて、あの夜の月の光を思い出す。

 ある夜のことだ。俺は寝付かれず、ただビルの影に沈む月を見ていた。

 すると。

 ……ぅっ……すん……ひっく……

 どこからか、俺の耳に子供の泣き声が飛び込んできた。

 初めは、どこかに入院している子供が泣いているのかと思った。

 しかし、思い起こしてみても、この階に子供が居るところなんて見たことはない。

 ……えふぅっ……ひっ……ひぅ……

 尚もすすり泣きは続く。幻聴だ、と思って布団をかぶると、その時、しっかりと聞こえた。

「……死にたい」

 思考がすっとクリアになり、瞬間、闇に佇む湖面の如く世界が静寂に沈む。

 目の焦点が合う。俺の手は、シーツをぐっと握りしめていた。

 ちっ、と無意識に舌を打つ。どさっと枕に頭を乗せ、何かを吹っ切るように、俺は目を閉じた。

 ――死にたい。

 そう、少女は、確かにそう言った。

「……お前さんも、聞こえたか?」

 のっそりと動く雰囲気がしたと思うと、隣の男が話しかけてきた。

「ったく、なんだろうなぁ……おい」

 ぽつり、と呟くようにそう言った。

 男が忌々しげに太い眉をひそめているのが容易に想像できる。

「……ああ」

 俺は、そう短く答えただけで、そのまま意識を深く落とした。







 そして、今日。

 ナイーブな月はビルの後ろに隠れ、濃密な闇が辺りに溜まっている。

 窓を開けても風は一つもなく、ただ冷たさだけが無遠慮に俺の頬を撫でていった。

 隣の男はもう眠ってしまったらしく、豪快なイビキを立てている。

 その騒々しさにいよいよ辟易していると、

 ……んくっ……ぐすっ……

 全ての遮蔽物を無視して、俺の神経を突き抜ける声。

 それが再び、聞こえてきた。

 俺は毛布をはねのけ、耳を澄ませる。

 ひっ……ひっ……ふぁっ……

 聞こえる。確かに、聞こえる。

 少女が、泣いている。

 幽霊を怖がる歳でもない、しかし、やはり気に掛かる。

 俺は起きあがり、上着を羽織ると、ゆっくりとドアノブを引いた。

 ぎぃ……

 やけに大きな音を立てて扉は軋み、非常灯だけが灯っている暗い廊下に出た。

 リノリウムの床は僅かな明かりに照らされて冷たい光沢を保っており、見るからに生者の存在を拒んでいる。

 静謐な空気は肌寒く、上着を羽織ってきたことを正解と感じさせる。

 俺は、ぱたんぱたんとスリッパの音を響かせ、声が聞こえる方へと向かっていった。

 程なく俺は、歩みを止める。

「……ここか」

 廊下の、一番端。重そうな扉の上には、「薬品庫」とだけ書かれていた。

 もうすでに、泣き声は聞こえなくなっている。

 やはり、何かの空耳か、それとも、木々のざわめきがそう聞こえたりしただけなのだろうか。

 扉はいかにも頑丈そうで、真っ白いペンキを塗られた扉と対照的に、

 これは取り替えなかったのか、ドアノブは黒くくすんでいる。

 薬品庫、か。

 まさか薬品庫なら、開くわけはないだろう。

 そう思い、からかい半分でドアノブを回してみると、

 ぎぃ……

 想像通りの重厚な音を立てて、ドアが開いた。

「おいおい、マジかよ……」

 一人呟きながら、乗りかかった船と、そっとその隙間に身を潜り込ませる。

 何故俺が、そんな子供のような事をしたのか。

 好奇心に負けたか、月の光に騙されたか。

 ともかく俺は、後ろ手にそっとドアを閉めた。

 中は埃っぽく、酸っぱいような妙な匂いがしていた。

 こんな所にいたらそれこそ病気になっちまうな……

 手探りで照明のスイッチを探す。

 しかし、指はただ虚しく壁を叩くばかりで、何もそれらしき物は見つからない。

 ちっ、明かりも無しか……

 泣き声はもう聞こえない。やはり、何かの聞き間違いだったのだろう。

 いよいよ、自分が阿呆に思えてきた。

 このままここにいては、看護婦に見つかるかもしれないし、何より、俺に隠れん坊の趣味はない。

 さて。

 俺が回れ右をして、部屋から出ていこうとすると、

 がんっ!

 右足を、何かに強くぶつけた。

「くあっ」

 俺が痛みに顔をしかめていると、ちょうど俺の肩口辺りから、何かが落ちてきた。

 落ちてきた物は、床に堅い音を立て、ごろんと音を立てる。

 明かりがないので確かなことは分からないが、恐らくそれは薬品を入れた瓶か何かだろう。

 とすると、俺が足をぶつけたのは棚か。

 ……やれやれ、出来の悪いコントじゃないんだぜ?

 もう少しその時の俺に余裕が有れば、大仰に肩をすくめていただろう。

 ともかく、さすがにこのまま放っておく訳にも行かない。

 暗闇の中、ようやく慣れてきた目で、おおよその瓶の位置を見極めると、屈んで拾おうとした。

 しかし、

「痛っ!」

 指先に鋭い痛みが走った。

 どうやら瓶は今落ちたショックで割れていたらしい、切っ先で指を怪我してしまった。

 弱り目に祟り目だ、と俺が虚脱感に襲われていると――

 不意に、だ。

 背後に、誰かの気配がした。

 反射的に振り返る。

 白く、ぼうっとした光が視界を掠める。

「誰だっ!?」

 とっさに身構えて、その光を睨み付ける。

 光は段々と大きくなり、そして、それに包まれるように、一人の、少女が。

 一人の、横たわる少女が、映し出された。

 艶やかな着物と、おかっぱに切りそろえた髪が、不思議な艶を醸し出している。見るからに華奢で、年端もいかない少女だ。

 その少女が、暗闇の中に、淡く輝いている。

 俺は、彼女が、この世の物ではないと直感した。

 こいつが、毎晩泣いていた……?

 俺の疑問に答えるかのように、少女は、大きな瞳をすぅっと開いて、そして、ゆっくりとした動作で立ち上がった。

 まるで生気を感じさせない薄い唇が、そっと開く。

「死にたい……」

 毎晩聞く、決め台詞。

 しかし、その空気に溶けてゆく余韻の後に、一つ、言葉が消されていたのだ。

 それに気づくのは、もう、遅かった。

「死にたい……の?」

 一歩、また一歩と、少女が俺ににじり寄ってくる。

 逃げようにも、身体は金縛りにあったように動かない。

 腕も、足も、1mmたりとも動かせない。

 震えることすら許されず、少女の支配する空間の中で、ただ目だけが、彼女の動きを逐一捕らえていた。

 ふわり、と少女の髪が闇に広がる。

 足音も立てず、無駄のない動きで、つつつと俺との間合いを詰める。まるで彼女は、空中を歩行しているかのようだ。

 そうして少女は、俺の眼前にまでやってきた。

 ふいに、少女の唇が歪み、笑みをこぼしたような気がした。

 つい、と背伸びをして、俺の首に小さな手を添える。

「死にたい……の?」

 上目遣いをした彼女の目。殆ど白目になったその眼球は僅かに血走り、狂気なる輝きで俺の存在を酷く不安定にする。

 恐怖。

 それを感じる前に、俺の意識は、闇の底へと閉じこめられていた。







「……しかし、困ったものですね。婦長。あなたの責任ですよ?」

「ええ、申し訳有りません、院長先生」

 一組の男女が、薬品庫の中で囁き有っている。

 彼らの前には、昨日、薬品庫に忍び込んだ、若い患者が倒れていた。

「ああ、ようやく人手が来たようですね。さ、彼を運び出してください」

 搬送用のベッドを持った人夫に、患者が運び去れていく。

 彼はそれを見送ると、再び婦長の前に向き直った。

「それにしても、妙ですね。ここは閉鎖されて、鍵もなくなっていたのですよ?」

「ええ、存じておりますわ」

「何かの拍子に、鍵が開いてしまったのでしょうかね」

 ドアのノブを乱暴にがちゃがちゃと回す。

「仕方有りません、扉ごと、鍵を新しくするしかないでしょう」

 婦長がほう、とため息を吐く。

 ふと、院長が、気づいたように床に落ちている割れた瓶を見る。

「やれやれ、中身も殆どなくなっていますね。まあ、元々、小さな瓶ですが」

「先生。それは……?」

「ええと。チョウセンアサガオ……ああ、ダチュラですか」

 彼は一人、納得したように、瓶を棚に戻す。

「とりあえず……件の彼も、妙な疑いを掛けられたくないでしょうし、この事は内々で処理しましょう」

「ええ、分かりましたわ」

 仰々しく婦長は頷くと、ドアのノブを掴み、手前に引く。

 そして、ぎぃと重い音を響かせながら、首を傾げる。

「でも、先生。あんな噂、どこから流れたんでしょうね?」

「おや。看護婦の間で流布されていたのでは無かったのですか?」

「まさか。院長先生こそ、ご存じないのですか?」

「いいえ、私はご覧の通り、ただの跡継ぎですから。ここで何が有ったかなんて……知りませんよ」

「それにしても、眠り姫の噂なんて……妙に、ロマンチックですわね」

 婦長は、目を細めて、微笑む。

「全くですね……しかし、そんな噂のせいで、こんな所に人が来るようになっては、困りものです」

「先生。彼の容態は?」

「ええ、特に変わりはないですよ。先ほどの薬品を吸ったせいで意識を失ったようですが……命に別状はありません」

 そうですか、と婦長は頷くと、留めていた手を再び動かし、ドアを開いた。

 彼らの前には、真っ白な病院の廊下がひらけている。

 二人は外に出ると、中をちらりと見て、ぎぃとドアを閉めた。

 再び闇に閉ざされた部屋の中。

 青白く淡い光に包まれた少女が、俯いたまま、ふわりと立ち上がる。





(終)



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