暗闇森


 はあ、はあ、はあ、はあ。
 もう追ってこないか?
「出てこい!」
 ライトがさっきまで俺がいた道路を照らす。
 畜生もう追いつかれたのか。
 いいじゃねえか五万円くらい、俺なんか死にかけてるんだぜ。
 人の命と紙切れ五枚どっちが大事なんだよてめえら! ええ!
 はあ、はあ、はあ、はあ。
 ん、行き止まりか!?
 いや、これは、闇だ。闇に包まれた森だ。鱗のごとき木々の古皮が闇の中でほのかに煌めいている。
 この中ならそうそう見つからねえだろうな。
 渡りに船とはこのことだと、俺はその中に身を躍らせた。
 ぺきぺきと枝を折りながら、森の奥へ奥へと入り込む。
 案外深そうな森だが、なあに明日まで見つからなければなんとか逃げられるさ。
 ふう。俺は手探りで巨木の幹を確かめると、それにしなだれかかった。
 辺りはしいんとしていて虫の鳴き声も動物の足音も聞こえない。
 ましてや官憲の苛立たしい声もだ。
 とっくに馬鹿になっていたらしい膝が、安堵のためかがくりと崩れ落ちた。
 そうなったが最後、どう気張ろうとぴくりとも動かなかった。
 まあいい。今夜はここで寝るか。
 疲労はピークに達していた。俺はコートを羽織り直すと、ごつごつとした根に腰掛け、そのまま目を閉じた。
 ……
 十分に眠ったのを確認してから、俺は瞼を開ける。
 辺りはまだ濃密な闇が佇んでいた。
 おかしいな、夜明けはまだなのか。
 暗い。時計でも持ってくれば良かったか。
 まだ身体の節々が痛む。もう少し静養していれば日が昇るだろう。
 そう思って夜明けを待った。
 しかし、それどころか、どんどんと辺りは暗闇に包まれていった。
 暗闇に目が慣れるより早く、闇へ、闇へ。
 薄ぼんやりと見えていた自分の手も、木々の表皮も、辺りに舞い散る枯れ葉や枝も、何も見えず、ただ世界は黒く塗りつぶされていた。
 背筋が寒くなる。
 夜明けは。夜明けはまだなのか。
 俺はじれったさに立ち上がり、昨日来た方角をなんとなく思い出しながら歩き始めた。
 手を伸ばし、足はすり足で、障害物を確認しながら少しずつ。
 泳ぐ手が闇を掴む。何かの感触がしたのに、もう一度確認すると何もないなんて事はざらだった。
 焦りだけが募る。心臓が早鐘のように打ち響く。
 早く。早くここを出なければ。
 手はどろりと重い。暗闇に掴まれているかのようだ。
 早く早く。早く。
 俺は闇雲に走り出した。
 幸い何の障害物にもぶつからなかったが、明かりは一筋も差してこなかった。
 待てよ。
 何の障害物にもぶつからないなら。どうしてここには明かりが無いんだ。
 暗い。俺の目は本当に開いているのか。実は目を閉じて歩いているのではないか。
 もちろんそんな事はなくて、開いても閉じても同じ景色だ。
 ただ黒のみが広がる空間。
 どこだここは。
 俺は走る。しかし何にもぶつからない。何も見えない。
 暗い暗い。ただ暗闇だけが有る。
 暗い。ああここはどうなっているんだ。
 出口はどこだ。暗い。暗い。
 闇が、闇が、闇が、俺を押しつぶそうとしてくる。
 そもそも俺が立っているここは本当に地面なのか。
 枯れ葉も小枝もない、ましてや砂の感触すらしないここは。
 怖くて確かめる事は出来なかった。
 走る。走れば。走ればきっと。闇が。闇が闇が。闇が広がって終わらない。
 なんだ。なんだなんだ。これは夢か。そうだ夢か。夢なら醒めなければ。
 醒めろ醒めろ。夢よ醒めろ。がんがんがんがんがんがんと自分の頭を殴りつける。
 ただ頭痛が走っただけで何にもならなかった。
 ここは一体何なんだ。
 俺は森の中に入った。それなのに。それなのに。
 走る走る走る。何もない。
 助けて。誰か助けて。おまわりさあん。誰か。誰か誰か。
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
 叫ぶ。自我が狂いそうだ狂い狂いそうだ。
 狂い。狂え狂い。助けて。許してください。すみません。
 五万円なんて返します返します。暗い暗い。暗い。
 手探りでズボンのポケットをまさぐる。
 そこには何もなかった。
 ポケットが無かった。ズボンが無かった。俺の身体が無かった。
 手。俺のじゃあ俺のこの手はどこどこから生えているんだ。
 手。手なんて。手だと。手。手は。手が。手が。手。手が。
 手がない。
「」
 叫ぼうにも口がない。何も出来ない。何も聞こえない。
 そうだ俺にはまだ目が。目が有る。ある。有るけど何も意味はない。
 瞼を開く。閉じる。開く。閉じる。開く。閉じる。開く。閉じる。開く。閉じる。開く。閉じる。開く。閉じる。
 闇。闇。闇闇、闇。闇。闇闇闇闇闇闇。黒い黒いよお。何も見えないよ。
 何も。俺は何もない。暗い。俺が俺が。俺がなくなっちまう。
 俺が俺で。俺が。闇で。
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
 叫びたい。頭を抱えたい。唾液を垂れ流したい。目を見開きたい。
 返してくれよ。俺の身体を返してくれよ。俺の身体。身体。身体ってなんだよ。俺の身体なんてどこにあったんだよ。
 ああ暗い。ここは暗いよ。ここはどこなんだよ。
 俺は今どうやって考えてるんだよ。何も。俺には何も無いのに。何もない。
 そうだこのまま心が無くなればきっと楽になれる。
 そうだ楽になれる。楽なんだ。良かった。救われた。
 救われた。救われた。救われた。救われた。救われた。救われた。救われた。救われた。救われた。救われた。救われた。
 救われた。救われた。救われた。救われた。救われた。
 救われない。
 暗い。
 闇が。俺の周りにはずっと。
 ああ俺は。俺は俺は。
 暗闇が。闇が。闇。
 死んだのか。生きてるのか。俺は。俺が。が。ががががが。
 ががががががががががががががががが。
 がっ。闇は変わらない。俺が狂おうが。闇は闇のまま。
 暗い。叫びたい。
 あああああああああああああああああああああああああ。
 あああああああああ。ああ、あ。



(終)





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