霧の中

 記録的な大雨の後に記録的な暑気。そして曇天だなんて来たものだから、街は未曾有の濃霧にすっぽりと包まれていた。
 航空写真でも撮ったら、この街だけすっぽり白いドームに覆われてるみたいになってるんじゃないかな。ほら、なんかSF映画みたいな、街が異世界に取り込まれてしまって出入り不能とか、そんなの。
 それは望むところだなと思いつつ、あたしは散歩に行くべく玄関でスニーカーを履く。 あ、そーだ。一応、茶の間でテレビ見てげらげら笑ってる姉貴に一声掛けておく。
「ちょっと散歩行ってくるからー」
「んー? あいあーい」
 返事のすぐ後には知性の全く感じられない笑い声。どうやら姉貴は散歩に付き合う気はさらさらないらしい。こんな良い天気なのに外に一歩も出ないなんて、この女、ホントどうかしてる。
 もっとも、くっついてこられてもうるさいだけだから、居ない方がいいんだけど。
 玄関の戸を開けると、ミルク色の空間が目の前に飛び込んできた。
 数m先もおぼつかない、あまりにも素晴らしい霧だ。あたしは足下に地面があることを確認して、一歩踏み出す。
 途端に、あたしと言う侵入者に対してやわらかな感触のお出迎え。Tシャツと、膝丈に切ったジャージ姿だから、あたしはほとんど全身で撫でるような霧を感じることができる。
 行く先はどうしようか。まるで何も決めていない。
 とりあえず、近所にある雑木林に行くことにしよう。何となく、あそこが一番霧が濃い気がする。
 希望を言うなら、百年前から変わらぬ姿ってキャッチフレーズが似合いそうな大森林が近所に有れば良かったんだけど。でもそんなものがあったら、家の中に獣が飛び込んできてしまうかも知れない。それは、やだな。
 歩くたびに、体中に水滴が張り付く。最初はちょっとだけ気持ちが悪いが、すぐに慣れる。次第に、全身がしっとりとしていることに楽しさを覚えだしてしまう。そうなったら、あたしの勝ちだ。霧を掻き分けて練り歩くのも良いし、霧にふんわりと抱かれて横になるのもいい。霧の中の散歩はこれだから辞められない。
 でも道路沿いはだめ。車がひっきりなしに往来して、乱暴に霧を引き裂いてゆく。こいつらはせっかくの霧を何だと思っているんだろ。でも、車のライトが霧をぼおっと照らし出すのを見るのはなんだかわくわくするから、すこしだけ機嫌を直すことにする。
 歩道を歩いていて、他に人が来ないというのは単純に気分が良い。独り占めしている感覚になる。せっかくだから、あたしはその時間を楽しむようにゆっくりと歩いた。
 いつしか足下のアスファルトがとぎれて、土に変わる。スニーカーが汚れるのは気になるけど、そんなのは些細なこと。目的の雑木林は目の前で、あたしはますます濃くなる霧を両手でかき混ぜるようにしながら歩く。
 虫も鳥も、今日は休日のようでひっそりと黙っている。雨と違って水の音もせず、辺りは恐ろしいまでの静寂に包まれていた。
 目の前に、ぬっと細長いものが現れた。何かと思って身を離せば、それは一本の木。気づけば足下の地面は、複雑に根が絡み合ったでこぼことしたものになっている。いつの間にか、あたしは雑木林の中に足を踏み込んでいたらしい。
 目を閉じて、深呼吸をする。湿った空気が口の中に流れ込んで、あたしの喉を潤す。
 雑木林の中に入ったことも気づかなかったくらいだから、周りはもうすごいことになっていた。ぐるりと辺りを見回すと、なんだか細長いものが見えるだけで、後は何も見えない。
 本当にここは雑木林なんだろうか。こう霧が濃くては、それこそ大森林に居るのとそう区別が付かない。よく考えたら、自分がどこから入ってきたかも忘れていた。このままじゃ、遭難しちゃうかもね。
 あたしは寝転がる気持ちにも、そのまま歩き続ける気持ちにもなれず、そこに立ちつくしていた。体中を霧が包んでいる。あたしの身体は色が薄いから、もし他にも物好きな奴が来てこの大森林に迷い込んだとしても、あたしの存在に気が付かないんじゃないか。
 そいつはあたしがすぐそばに居るのに、何も見えなくておたおたするばっかりなんだ。
 そんなことを考えたら、なんだか自然と笑えてきた。
 霧にしか見えないだなんて、あたしって一体なんだ。ひょっとしてもう、あたし自身も霧の一部なのかな。
 ああ、それも良いかも知れない。
 すっと身体の力を抜く。
 分かる、分かる。あたしの腕が、足が、どんどん霧に溶かされていく。
 それは蝕むようなイヤなことではなく、眠りに落ちていくような、幸せな感覚。
 身体も、首も、髪の毛も。目も鼻も口も全て、溶けてなくなっていく。
 あたしはあたしであり、そしてこの霧そのもので。境界も状態もあいまいな、微少な水滴の集まり、それがあたし。
 身体が拡散し、無辺大に拡がっていく。霧は音を消し、臭いを消し、姿を消す。あたしはこの街の全てを、何もかも消してしまうんだ。
 このあたしが霧になったように、全てが霧になってしまう。そこには晴れも雨も、明日も昨日も、昼も夜もない。ただ茫洋とした空間。
 それは永遠なのか一瞬なのか、そんな区別すらもどうでもよくなるような、ただそこにあるだけの幸せ。漂い、移ろい、そして自分自身もだんだんと薄らいで、最後にはいつのまにか無くなってしまう。それはとっても、甘美なことに思えた。
 霧に。あたしは霧になっている。
 そして、襟首をぐいと引っ張られて後ろに転がされて、痛いじゃないのさ。
 痛みにちょっと叫びそうになったけど、それはぐっと飲み込んで我慢した。なるたけ恨みがましい顔をつくって目を開けると、見飽きたにやけヅラがあたしを覗き込んでいる。
「にひー。大丈夫ー?」
 部屋着姿の小柄な女。姉貴だ。
 傘を差し、もう片方の手に閉じた傘を持っている。おそらくこの取っ手であたしの襟を引っかけたんだろう。自分でやっといて、大丈夫もないもんだ。
「何さ」
 すっころばされたおかげで、あたしは霧ではなくなってしまった。この女はいつも余計なことばかりする。この辺の地面は、さっき言ったとおり根っこがごつごつしてるから、背中がすんごく痛い。
「あーによう? いつまで経っても帰ってこないから、迎えに来たんじゃないのよーう」 口をすぼめて見せる姉貴。あんたいくつだ。
 全く、それにしても大きなお世話というやつだ。だが、ここで口答えでもしようものなら、姉貴はへそを曲げて、しばらくあたしの身の上に姑息で凶悪な嫌がらせが続くことだろう。昔のように、家がぶっ飛ぶような全面抗争の日々を送れるほど、あたしは若くはない。
 とりあえず、ぜんぜん心に思ってなくとも、礼を口にする。
「そ。ありがと」
「ん、素直でよろしー」
 立ち上がり、姉貴の差し出した傘を受け取る。霧は上から降ってくるわけじゃないんだから、こんなの意味が無いだろうに。見れば姉貴自身の身体もびっしょりと濡れていた。一体、何を考えてるんだか。家でテレビでも見てればいいじゃない。
 あたしは受け取った傘を開きもせず、迷い無く前を歩く姉貴に付いていく。
 姉貴、帰り道ちゃんと分かってるんだろうか。と言うかそれ以前に、ふと疑問が湧いた。
「そう言えば姉貴。なんであたしがここに居るって分かったの?」
「なんとなーくねー」
「ふうん」
 変なの。まさかあたしの身体には発信器でも取り付けられてるんじゃなかろうか。
 まあ姉貴のことだから、野生動物なみに鼻が利くんだろう。そうだそうだ、家の近くに大森林が有ったら、姉貴が野性に帰ってしまうじゃないか。
 それにしても姉貴はやたらと足が速い。あたしのように霧の中をのんびり散歩しに来たんじゃないから、早く帰りたくて当然かな。だけどそんなに速く歩かれると、この霧だから、見失ってしまう。
 姉貴の姿がぼんやりと揺らめきだし、そのまますうっと霧の中に消えてしまったら。
 それは、いやだ。
 なぜなら、帰れなくなるからだ。
 だからあたしは小走りに姉貴に近づいて、その手をぐいと握った。
「お?」
 姉貴は意外そうな顔で振り返った。何か言いたげに唇をにいと歪めたけれど、結局何も言わず、そのままあたしの手を引いて歩き出した。
 どうせ甘えん坊だとか何とかって、からかおうとしたんだろう。長いつきあいだ、その笑みだけで全部分かってしまう。まったく、癪に障る女だ。
 だけど、握った手を離そうとは思わなかった。


(終わり)