傘がない
窓を見ると霧雨が降っていたので、本降りにならないうちにあたしは夕飯の買い物に出かけることにした。
と、傘立てを見ると、一本も傘がない。
そう言えばあたしの傘はこの間の台風で壊れちゃったんだっけ。
もう一本くらい有ったはずだけど――あー。たぶん、姉貴が使ってるんだろう。
しょうがないので、コートを羽織って出立することにした。
フードを目深にかぶり、玄関の扉を開ける。しとしとと降り注ぐ霧雨。3m先も見えやしない。
でも、悩んでいたところで夕飯が出来るわけもなく、あたしは外に出た。
予想以上に雨は冷たい。あっと言う間に水滴が顔に張り付く。
だけど雨の中を歩くのはそう嫌いじゃない。いざとなったら姉貴に電話するなり買い置きの缶詰を食べるなりすりゃ良かったんだけど、このくらいの雨なら楽しさのうち。
コートのポケットに財布が有るのを確認して、あたしは一路スーパーへ向かった。
途中、赤い傘をさした人にすれ違った。それくらいならどってことないけれど、続けて三人、赤い傘の人を見たときはギョッとした。
どっかで赤い傘でも配ってるのかなと思ったけれど、無地の真っ赤の傘はどこにも公告なんてなく、結構頑丈そうな作りをしていたから、とても無料のものとは思えなかった。
続いて四人目の赤い傘が現れたとき、あたしはさすがに寒気を覚えた。
そいつはコートを着ていて、傘を低めに差しているから顔なんてわかりゃしない。よっぽど下から覗き込んでやろうかとも思ったけど、何かの厄介ごとに巻き込まれたら面倒だから、あたしは努めて気にしていない振りをして、そいつとすれ違った。
そして、スーパーの有る大通りに出る。霧の中にぽつんぽつんと赤い点。また、赤い傘の奴らだ。
大体、この時間なら、高校生どもがぎゃあぎゃあ騒ぎながら帰る時間のはず。なのに、赤い傘の奴らは、一言も話そうとせず、ただ静かに歩いてくる。
その薄気味悪さに忌々しさを感じながら、あたしはぱしゃぱしゃと雨を蹴っ飛ばしながら走った。
別に怖かったわけじゃないけど、走らずには居られなかった。
だけど、さっきも言ったとおり、霧雨の中は視界が悪い。フッと目の前に赤い傘が現れて、あたしは避ける間もなくそいつにぶつかってしまった。
身体がぐらついて、一瞬目を閉じる。
さすがに、一言詫びようと思って、目の前を見ると、そいつは居なかった。
何の冗談かと思った。道に、赤い傘がころりと落ちているだけで、それを差していた人物は跡形もなく消え去っていたんだから。
さあさあと霧雨の音が耳を刺す。コートはぐっしょり濡れて、今にもあたしの素肌に雨が染みこんできそうだった。
その時、ごうと風が吹いた。
途端に、顔に当たる粒が冷たさを増す。これは、もう、雨じゃない。雪だ。しかも、吹雪。
いつの間に、と思っても、なってしまったものは仕方がない。
仕方がないから、この傘を使わせて貰おうとも思ったけれど――やめた。
なんだかこの吹雪が、あたしに傘を差させようとする何者かの意志のように思えたからだ。
誰が赤い傘なんて差してやるものか。どうせ、スーパーまでは後少しなんだ。
吹雪だからって、ここは町中。遭難なんてするわけもないし。でもなんかからだが冷えてきたかも。急ごう。
歯の根をガチガチ鳴らしながら、川沿いにあるスーパーにたどり着いてみると、シャッターが全て閉まっていた。首を傾げつつ、何かはためいているので見に行ってみると、乱暴に本日休業の張り紙がされてあった。
おかしい。今日は定休日じゃないはず。だって、今朝入ってきたチラシを見て、あたしは今日ここに買い物に来ようと思っていたんだから。
この吹雪のせいで、店を閉めた? それも有り得ない。今吹き始めたばっかりなのに、駐車場には一台の車も停まっていない。つまり、最初から休みだったってこと。
よく、思い出してみると、天気予報じゃ雨のち曇りだったはず。当てにならないのは分かってるけど、それにしても、吹雪が起こるなんて――
「りんごはいりませんか?」
出し抜けに後ろから声を掛けられた。
「おいしいりんごですよ」
振り向くと、赤い傘を差した、これまた赤い着物の少女が、木箱を手に持ってあたしに笑いかけている。
周りには人っ子一人居ない。こんな吹雪の中、こいつは何をしてるんだろう。りんごだって? 馬鹿馬鹿しい。
大体、今時和服なんて、滅多に見ない。それもこんな雪の中ともなれば、なおさらだ。
「ご覧になってください。ほら、おいしそうでしょう」
そう言って少女はあたしの目の前に木箱を突き出す。あたしはこんなのと関わり合いになりたくないから、さっさと帰るつもりだったけれど、一瞬だけ中身を見てしまった。
少女が居た。
木箱の中には、少女が居た。
掌ほどの大きさの、林檎売りと全く同じ姿形をした少女が、ひしめくように居て――
そして一斉にあたしを見て、魚のように虚ろな目で、笑った。
あたしは走り出していた。
今日はどうなっちゃったんだろう。あたしの他に道を歩いているやつなんて居ない。
後ろを振り返っても、吹雪のせいで、あいつが追いかけてきているかどうか分からない。
霧雨の日に出かけようとしたのが間違いだったのだろうか。そんなふざけた話があってたまるもんか。
走り続ける手足の芯が痺れるように寒い。対照的に、口からは熱い息が漏れてゆく。滑らないように地面を踏みしめながら走るのも、これはなかなか重労働。水を吸って重くなったコートを羽織っているとあってはさらにきつい。
目の前に赤い点。林檎売りが先回りしたのだろうか。いや、あそこは確か、さっき赤い傘が落ちたところだ。
しかし、近づいて分かったが、その赤い傘はまるで誰かが差しているように――高い位置にある。
今度も脇を通り抜けさせてくれる保証はない。あたしは奥歯を噛んだ。
すると、その赤い傘はあたしの存在に気が付いたのか、明らかに戸惑っている動きを見せた。
先手必勝。どうなるかわかりゃしないけれど、やられっぱなしは癪に障る。
とりあえずタックルをかましてやるつもりだったけど――そいつは、意外な行動に出た。
「とりゃあー! お姉様キーック!」
そいつの上げた足がもろに胸に入り、あたしは咳き込みながら転げまわった。
「あちゃー、ごめん、やりすぎた? 無い胸がますますなくなっちゃうかなー?」
呼吸が苦しい。それにしても余計なお世話だ。
「あーにようその目は。あんたが悪いんだかんねー? おねーさまに会えて嬉しいのは分かるけど、殺気剥き出しで飛び込んでくるんだもんさー」
そいつ――バカ姉貴は、赤い傘をくるりと回してぷうと口を尖らせた。
気が付くと、吹雪はみぞれに変わり、辺りにはちらほらと人影が現れ始めた。
皆、黒や青など、色取り取りの傘を持っている。
「姉貴」
「ほいほい? なーにー?」
助かったよ――と感謝するのも筋違いな気がするので、別のことを言うことにした。
「今日の夕飯、缶詰で良い?」
姉貴は、何かを知っているかのように、目を細めて笑い――しょーがないなと呟いた。
(終わり)
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