十字路
きい、と言う音が響いた気がする。
人通りの多い交差点、周囲には八百屋や洋品店、昔ながらの商店街が軒を連ねている。
そこに、ちょっとした人だかりが出来ていた。
何て事はない、どこにでも有る交通事故。
男女二人が、信号無視をしたトラックに轢かれただけだ。二人とも、即死。鉄の塊は、か細い男女の命を奪うには十分すぎるほどの質量を持っていた。
皆、興味本位で死体を覗き、目を逸らすやら、逆に見つめるものやら、様々な反応を見せる。中には、携帯電話で写真を撮っている者も居たりして、群衆は好き勝手にざわめき立てる。
しかし、その女にとっては、それは決して茶化せるものではなかった。
「馬鹿」
呟きが漏れる。しかし、それ以上の言葉は胸の内に仕舞った。勝手に死んでいった二人に、いくらでも罵倒の言葉は思いつく。だがそれを吐きだしてしまえば、無様に涙も流れ出し、その場に崩れ落ちてしまうだろう。
間もなく警察が現れて、事務的に場を仕切り出す。女は、警察官に押されるまで、呆然と立ちすくんでいた。
警察官の一人が、怪訝な視線を女に向ける。
「お知り合いですか?」
「ううん、他人」
そう。別れた恋人など、他人でしかないだろう。
死んだ二人の顔に、もう目もくれず、女は毅然とした態度でその場から立ち去る。まだ若い警察官は呆然とその背中を見送った。
そう、自分は他人、関わり合いのないことだ。女は自分にそう言い聞かせて、ヒールをこつこつと鳴らしながら、一路家へと向かった。
確か、自分は何か用事が有ったのではなかったか。ああ、そうだ、買い物に来たのだ。
しかし、今、女を支えているのは家に帰るという単純な命令だけ。それ以外は、何も、受け付けることが出来なかった。
どうやって帰ってきたのかは覚えていないが、女は玄関のドアを開ける。そして、無表情に鍵を締める。そこまでが女の限界だった。
ハンドバッグを壁に投げつけ、大声で叫んだ。
涙は、後から後から零れてくる。
とうに未練など無いと思っていたのに。愛想など尽きたと信じていたのに。
哀しみの理由を考える余裕など無く、女はむせぶ。
記憶の中の男の顔と、血の気を無くしたあの死体の顔とが一致しない。
しかし、間違いなく、あれは自分の恋人だった男。信じたくないが、それは事実。
例え見比べようにももう、居ない。彼の笑顔を見ることは出来ない。
付き合いの中で男が見せた様々な表情が、浮かんでは、消えてゆく。
気の多い、男だった。
自分という女がいても、方々に声を掛けていた。
それは別に、女にとって大したことではない。そんなことは付き合う前から分かっていたし、諦めもついていた。
愛してくれているならそれでいい。そう、ずっと、思ってきた。
だが、ふと、女はこう考えた。自分は、所詮、アイツにとって、大事な存在でもなんでもないのではないか。
単に軽い気持ちで声を掛けた女と、そう違いが無いのではないか。今、付き合っているのだって、ただの気紛れ。
事実男は、自分と居るときにだって、心の奥まで晒してくれたことは、無かった。
疑念は女を取り囲む。考え始めるとキリがない。
そう聞くと、男はいつも答えをはぐらかす。或いは、笑って否定するか。
二人の関係は、ウェットなものではなかった。だから、そう強く問いつめることは出来なかった。
しかし女には、大体の真相は見えている。
男は、怖がっているのだ。女を、愛することを。
愛した末に、裏切られることが怖いのだ。だから、色んな女に声を掛けて、自分を誤魔化し、女の気を引くことしか出来ない。
そんなことも含めて、男を包んでやることが、自分に出来るだろうか。
それは、無理な相談だ。女には、自分自身のことも、分かりすぎるほど分かっていた。
自分では、男を幸せにすることは出来ない。
性格を変えることが出来れば、それも可能かもしれないが、それはもう、自分ではない。
理屈だけではなく、勿論、自分の考えが間違っていることを信じて、幾度か試したこともある。
貞淑に、それでいて穏やかに、男を愛する。
しかし、男が惹かれたのは、女の派手な性格。お互い、それで上手く行くわけもない。
男が求めるものが分かっているのに、応えることが出来ないなんて!
無力感が女を包む。
このままじゃ二人のためにならない、それは陳腐な言葉だが、確かすぎるほどに真実だった。
立場上、別れを告げたのは女の方だった。しかし、泣いたのも、女の方。
男は、最後まで、曖昧に笑みを浮かべていた。
少しは、悲しんだり、詰ったり、して欲しかったのに。
あくまで優しく振る舞う男の顔を、平手で叩いてやろうかとも思った。
女は一人になった。男は間もなく代わりを探し出した。
いや、代わりというのは適当ではない。その、新しい相手である少女は、気丈だが地味で、男には勿体ないほど可愛らしく、男に最適すぎるほど優しかった。
だから、代わりは、自分だったのだ。自分は、あの少女が現れるまで、男が本気で心を委ねられる相手が現れるまでの、代わりに過ぎなかったのだ。
このことは、誰にも言っていない。勿論、男にも、少女にも、誰にも。
そんなことが言えるような性格だったら苦労しない、と、女は煙草に火を付ける。
メンソールの香りが、つんと鼻に抜ける。涙を拭いたティッシュを、ゴミ箱に投げた。
涼しい顔をして、二人が暮らす男の部屋に遊びに行ったことも有る。
滑稽に慌てる男。きょとんとしている少女。
ちょっとした悪戯心を装って、二人の様子を覗き見たが、男は自分と居るときよりずっと、だらしなく、情けない顔を見せていた。
つまりそれは、そう言うことだ。
少女は無造作に男を扱い、二人の関係の進展を問うと照れて押し黙ったが、そんな表面的な部分ではなく、もっと奥の部分で二人が繋がっていることは、容易に分かってしまう。
嫉妬も、恨みも、無かったと言えばウソになる。だが、あっけからんとした少女は、女の自分から見ても魅力的で、女は、妹のような気分で少女を可愛がった。
少女も女に懐き、時折家に来ては、男に関する愚痴をこぼす。
二人の昔の関係を知らないわけではないだろうが、変に気遣われるより、そう言う関係にしてくれた方が、怒りも沸かないし、諦めもつく。
この子なら、男を任せても、大丈夫。むしろ、その方が安心で、嬉しい。
嘘でも欺瞞でもなく、女は、素直に、心から、そう考えることが出来た。
しかし、その少女も、もう居ない。
男と一緒に、永遠に会えない場所へ行ってしまった。
死ぬときが一緒だなんて、きっと、幸せなことなのだろう。例え、生きてる間、共に過ごした時間が、自分より短くとも。
野次馬の話では、少女の方が轢かれそうになったらしい。それを、男が咄嗟に抱きすくめたという。
しかしその甲斐無く、二人ともあっけなく死んでしまった。
美しい話だとか言っていた野次馬に、今更怒りが沸き立ってくる。
男は、本当に少女を愛していたのだろう。だからこそ、自分の一番大事なものが消えようとするときに、我が身を挺してそれを防ごうとしたのだろう。
もう、確かめる術もないが。
だけど例えば、轢かれそうになったのが自分だったら、男は、助けようとしてくれただろうか?
バカバカしい、と、女は煙草を消した。どうでも良い仮定だ。
いつの間にか日も暮れ、夜のとばりが街中に落ちていた。窓を開けると、冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。
女は、ふと思い出す。
急な事故だったから、二人に、何の余裕も無かっただろう。恐怖の歪みが表情に張り付いていても不思議ではない。
しかし、記憶の中で、目を閉じた二人の顔は、驚くほど穏やかだった。
(終わり)
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