橋の下
飲み会やら、何やらで、この時期は帰りが遅くなりがち。
あたしは飲み過ぎてふらふらする頭を抱えながら、終電に揺られていた。
周りには、あたし同様、飲み会帰りとおぼしき顔がちらほら。ちょっとご機嫌なあたしは、みんなごくろうさん、と陽気に挨拶でもしたい気分になった。
さて、いつの間にやら降車駅に到着していて、すこしうとうとしていたあたしはびっくりして一目散に列車を降りた。終電だというのに乗り過ごしちゃ、色々と洒落にならない。手持ちも少ないから、タクシーだのホテルだのって非常手段も使えないしね。
駅一つ間違えても大変大変――
ん、待てよ。あたしは頭にふっと浮かんだ恐ろしい想像を振り払うべく、自分が降りた駅名を確認する。
うん。間違いなく降車駅。酔っぱらってると、全然関係ない駅で降りたりとか、やりかねないからね。
手すりにつかまって階段をよっこら登る。あ、そうだ、定期。は、ちゃんとポケットに入ってる。うん。
財布も、携帯電話もオッケ。忘れ物とかしてないよね、あたし。
はー、ホント。酒は喜びと不安を同時に運んでくるから怖い。
怖いと言えばさ、改札を抜けたところで遭遇した、なんだかよく見知ったにやにや顔も怖い。腹の底じゃ何考えてんだかわかんないし、この女。
って、あれ。おかしーな。
「にゃはー。おかえりー」
なんで姉貴がこんなところに居るのかな。変だな。
「ちょっとちょっと、愛しいおねーさまがせっかくお迎えに来てあげたのに、なんで首を傾げてんのさー」
うん。迎えに来てくれなんて言ったっけ? あたし。
「いや別に言われてないよー。でもさ、ほら、夜道の女の子の一人歩きは危ないじゃん? とってもデンジャーじゃん?」
じゃあここまで一人で来たあんたはなんなんだ。そう言うと姉貴は無意味に笑った。あたしもどうでもいい気分になった。
それにしても、ただでさえデブの、間違えた、出不精の姉貴がわざわざ来てくれるなんて珍しい。と言うか、何か企んでいるような気さえする。
「感謝するよーに」
偉そうに無い胸を張る姉貴。
別に必要無いってのに。恩を無理矢理着せられた感じ。
あたしは全く嬉しくもなんともないので、はいはい感謝感謝と言いながら姉貴にふんわりと抱きついた。
あー、だるい。んー、姉貴あったかーい。
「ゎーお。公衆の面前で大胆不敵ーぃ。ってさ、どうしちゃったのいきなし?」
あれー? あたしそんな変なことしてるかなー? 酔っててなんか色々とおかしな感じ。
少し記憶が飛ぶ。いつのまにかあたしは街頭に照らされたアスファルトの小道を歩いていた。
びっくりした。歩いてるってことは、自分の意志でここまで来たんだろうけれど、それを全っ然覚えてないの。
んー? そんなに飲んだ気はしないんだけど、あたし、ちょっとやばい?
まあでも、それならそれで、姉貴が前を歩いててくれてることは不幸中の幸い。
姉貴、と呼ぶと、なぁに、と振り返る。よかった姉貴だ、人違いとかしてない。まあこんな、年甲斐もなくるんたたるんたたと悩みの無さそうな歩き方をする女が他にいるはずもないか。あたしはへへっと笑った。
「酔っぱらいはわっかんないなー。なんでそんな幸せそうな顔で笑うのかなー?」
あたしもわかんない。へへへ。
それにしても、夜風が涼しくて気持ちいい。火照った肌が、程よく冷やされる。
ってことを言ったら、姉貴はきゃーエッチスケベ変態淫乱ーとわめきだした。わけがわからないのでシカトする。
しかしこいつはそのくらいじゃめげたりしない。続いてこの万年発情期女ーとか言われた。それはあんただろうと思う。
挙げ句の果てにはやあい酔っぱらいと来た。事実無根の言いがかりも甚だしい。酔ってないよお。酔ってないってば。
でもさ、列車から降りたときはまだ普通だったんだよねあたし。だけど今じゃすっかり千鳥足。電柱に喧嘩を売ってやろうかと言う勢い。
今更酔いが回ってくるなんて、あたしもなかなか変な体質。
――あう? なんか向こうから聞こえる。
進行方向の先から――なんだろう。怒鳴り声?
何か喧嘩とか、トラブルの予感がする。姉貴ー。
「うんー。なんだろねー? あたしたちか弱い女の子だってのに、怖いなー」
うん、怖い怖い。はー怖い。
と言うわけで、あたしと姉貴はいそいそと野次馬しに行った。
「おーおー。やってるやってる」
ふらふらなあたしを置いて先に様子を見に行った姉貴が、感嘆の声を上げる。
追いついたあたしも続いてそれを見て、心があったかくなった。
だってさ、ホームレスとサラリーマンが喧嘩してるんだもん。
上を列車が通るとこの世の終わりかと言うほど揺れるコンクリート橋。その直下の道路上で、取っ組み合いの大立ち回り。
ここはあたしらの帰り道だってのに、とっても邪魔。
メガネのサラリーマンと、ヒゲのホームレス。どっちも、見たことない顔だ。
双方とも随分と酩酊しているようで、顔が赤い。興奮しているせいかもしれないけど。
それにしても酔っぱらいの喧嘩はホント見苦しいね。全然腰が入ってないパンチとか。左右にゆらゆらしながらのにらみ合いとか。
なんだか互いに相手を罵倒しあってるみたいだけど、声がデカいだけで何言ってるのか全然わかんない。
ホームレスの方が、相手のエリを掴んで、揺らして、離した。何やってんだ。
するとリーマンの方も負けてなくて、自分のネクタイを抜くと、おもむろに地面に叩きつけた。
あんたら、ホントに喧嘩する気あるの?
と、あたしが呆れ顔で眺めてると、どうやら二人はギャラリーが居ると言うことに気づいたみたい。
見せもんじゃねえぞこのやろー、って言いたかったんだと思う。うん。
でもその言葉は途中でとぎれちゃった。なぜならばサラリーマンの頭に、宙を舞うビール瓶が激突したからだ。
ぱかん、っていい音を立てて瓶は割れ、サラリーマンはずるずると地面に倒れた。最後までメガネ外れなかった。すごーい。
「めーいちゅーう」
横を見ると、姉貴ってば飛び上がって喜んでた。その両手にはゴミ捨て場で拾ったっぽい瓶。
してみるとさっきのを投げたのは姉貴か。
ずるいずるい。あたしにもやらせてよ。
「ダーメ。あんたは酔っぱらってるんだからさ」
とか言いながら、姉貴は第二弾投擲を開始。呆然と立ちすくんでいたホームレスの側頭部に良い当たり。
今度は瓶は割れなくて、ゴン、って鈍い音を立てた。折り重なるように倒れるホームレス。
あー。もう的が居なくなっちゃった。
だからあたしにもやらせてって言ったのにー。
いつもそうだ。姉貴はいっつもあたしのやりたいことを先に取っちゃうんだから。
「にひー。早い者勝ちだしー」
姉貴ひどい。とても許せるものじゃない。
あたしは姉貴の手から瓶をもぎ取って、その脳天気な顔に思い切り叩きつけてやった。
そこで気がつくとあたしはベッドに寝てた。窓の外じゃ小鳥の鳴き声。カーテンの隙間から差し込む日光。朝だ。
え。あ。あれ。
また記憶が飛んだ。いつの間にあたし帰ってきて寝てたんだろ?
と言うかいい加減酔いが覚めた。
まざまざと甦る昨夜の記憶。この手に残る、姉貴を瓶で殴打したときの感触。
うわ。
あたし、なにげにとんでもないことをしちゃったんじゃ。
狐に摘まれたような気分になりながら、ベッドから這いだしてリビングへ行くと、もう四月だって言うのに姉貴が炬燵にすっぽり入ってトーストをかじってた。
「おはよー」
おはよ。って。姉貴、顔、大丈夫?
「は? 何が? このあたしのパーフェクトビューティフルな顔に、何かご用ー?」
ううん、パーフェクトビューティフルな顔とやらに全然用はない。
おかしいな。じゃあアレは夢だったのかな。どこからどこまでが夢だったのやら。
それにしても、この記憶の飛び具合から考えると、ここに辿り着くまでに相当姉貴に手を掛けさせたんじゃないだろか。
珍しく姉らしいことしてくれたんじゃん。さすがのあたしもちょっと罪悪感と感謝。
姉貴昨日はごめん、と謝ると、こいつと来たらまたしても、あんた何言ってんの、って顔をする。
「昨日、って、なんかあったっけー? あんたが酔っぱらってうちに帰ってきたことくらいしか覚えてないけどさー」
そうそう、酔っぱらって、帰って、って、ん? 姉貴の言い方おかしくない?
まるでずっと家に居たみたいな口ぶり。あんた駅まで迎えに来てくれたでしょ?
「あたしがぁー? すーるわけないじゃん、そんな面倒なことさー。大体、お迎えなんていらないでしょ?」
呆れる姉貴。
そりゃー、そうだ、ね。お迎えは別に要らなかった。あれ? でも来たんじゃ、え、それも夢?
夢だとしたら、あたし、記憶を無くしてるってのに、よく帰ってこれたね。自分にびっくり。
まあ、なんだか釈然としないけど、こうして無事家に居るんだからいいか。
「あんたまだ酔っぱらってんじゃないのー?」
んー、そうかもしんない。なんか頭がガンガンするし。二日酔いってやつっぽい。
と、姉貴が開いてる新聞の社会面が目に入る。
へえ、昨夜酔っぱらい二人が喧嘩中に死亡ね。第三者からビール瓶で殴られて。うわ。
「あーこれね。めっちゃこの近くじゃーん? 大丈夫ー? あんた昨日現場に居合わせたりしなかったー?」
しなかったよ。アレは夢だしね。
(終わり)