月下
黄金の一週間らしいけど特に出かけるような予定もなく、あたしは部屋でごろごろコンビニ文庫を読んでた。鈍色週間。
小うるさい姉貴も、居間にこもって年中出しっぱなしのこたつに潜ってる。音と言えばスズメの鳴き声くらいで、読書するにはもってこいの時間だ。
と、気がつくと、そのスズメの鳴き声もしなくなっていた。代わりに、さあっと言う心地の良い音。
あたしは顔を上げて窓の外を見てみる。雨だ。
手に持っていた文庫本をぱたんと閉じ、あたしは目を輝かせて部屋から出る。
こんなに良い天気になったんだもの。散歩にいかなくちゃ。
上機嫌で階段を降り、ふと居間に目をやると、テレビを見ている姉貴と目があった。
「何あんた。雨降ってきたから散歩?」
「そ」
呆れ顔で問いかける姉貴に、言葉少なく答える。姉貴はいよいよわざとらしく渋い顔になる。、
「あんたねー。お外で雨を浴びるのが好きーなんて不思議ちゃんキャラが許されるのは、高校生までだよー? いつまでもそんな自分演出を」
姉貴がわけのわからないことを言い出すのはいつものことなので、あたしは無視して外に出た。
ところが、玄関の戸を開いてみると、すかっと爽やかな五月晴れ。雨の気配なんてどこにもいやしない。あれっ。
でも、庭木は少しだけどしっかり濡れていて、少なくともさっきの雨があたしの幻覚じゃあないことははっきりしている。雨はどこに逃げたかな。
空を見上げてみれば、つい先ほどまで雨を降らせていたとおぼしき大雲が、遥か東の彼方へ飛ばされていってる。どうやら天気雨だったみたい。つまんない。
またぱらぱらと降ってこないかな。あたしは黒のワンピをそよ風にはためかせて、空をぼやっと見上げてた。
中天には月が出ている。真昼の月というやつだ。
夜に出ている、天空の支配者然とした煌々と輝くそれではなく、うすらぼんやりした頼りない輪郭の月は、じっと見ているとなんだか不思議な気分にさせられる。
月。うん、月だ。月。月?
と言うかアレは本当に月なのかな?
三日月でも満月でも半月でも新月でもない今日の月は、中途半端で、月であると言う確固たる認識を阻んでいる。
ほら、小学校の理科の時間に、ボールに色んな角度からライトを当てて、月の形が変わる理由を説明されたじゃない?
あれ、あれ。あのボール。あのボールが、そのまんま空に浮かんでいる感じ。
あのボールは、暗闇の中でふっと見ると、わ、月だって思えるけどさ。ようく見ると、やっぱりライトを当てられたただのボールじゃない? それなんだ。
空に浮かんでるアレは、月に見えるだけの、ただのボール。
そうとしか見えない。アレは月じゃない。
とすると、あんなに遠くの空に浮かんでるボールって何だろ?
天空に浮かんでいるだけの青白いボール。それって、すごく異常だ。
空の一点にじっと浮かんでいるように見えるけれど、そのうちすうっと落っこちてきたりしないかな。
打ち上げたバレーボールが地面に落下するように、どこか遠くの地面にあのボールが落っこちる。
そうならないかな。なったら面白いのにな。
あたしはその時を期待して、雨も降っていないのに外でずっと立ちつくしていた。
「何してんのかなー?」
背後から掛けられる、脳天気な声。
厚手のスウェットを着込んだ姉貴が、いつの間にかあたしと並んで庭先に立っていた。
「あたしの可愛い不思議ちゃんシスター。天体観測にはまだ早いんじゃないかなー」
「いや、アレ」
あたしは中天のボールを指さした。
「へ? 月?」
月じゃないってのに。どう見てもボールじゃん。わかんない奴。
「アレ、落っこちないかなーと思って」
「何言ってんのあんた?」
あからさまにバカにした口調になる姉貴。あたしは頬を膨らませて、姉貴を睨み付けてやる。
「ああ、はいはい、分かった分かった、おねーちゃんも手伝ってあげるから、怒んないの」
手伝うとかそういうことじゃないんだって。アレはボールなんだから。放っておけば、きっと自然に落っこちてくるよ。
まあ、そんな説明をしたところでこの女に通じるとは思えないから、あたしは何も言わず放っておくことにした。
すると姉貴は、何を思ったか、両手をボールに向けてかざし、怪しげにくねらせ始めた。
「あぶ〜らかたぶーら〜」
今度はあたしが呆れる番だ。どうしたんだろこの女。いよいよネジが外れたかな。
「見てなさいよ、今、この美貌の超能力者のおねーさまが、すごい念力で月を地球に引き寄せちゃうからさー」
馬鹿馬鹿しい。何、いきなり、超能力って。
おかげであたしの気分は一瞬で冷めた。
やっぱりアレは不思議なボールじゃなくてただの月だ。
ただの月なら面白くもなんともない。空に浮かんでるのが普通なんだから。
奇声を発しながら念を送り続けている姉貴に、ま、頑張ってとだけ言って、あたしは早々に家に戻った。
(終わり)