珈琲と幽霊


 ――その日は、雨が降っていた。
 郊外にある小さな珈琲店のマスターは、物憂げにカップを拭きながら、窓の外を眺めていた。
 唇に挟んだ紙巻煙草から、紫煙が渦を巻いて換気扇の向こうへ消えていく。
 店内には、マスターの他に、一人の女性客しかいない。彼女は静かにボックス席に座り、目の前のカップを見つめている。
 その時、来客を示す鐘が、軽やかな音を立てた。
「よっす」
 落ち着いた色合いの店内にそぐわない、金髪の青年が、マスターに向けてラフな挨拶をする。
 マスターは、ちらりとその人物を見ただけで、何の反応も示さずにカップを拭き続ける。
 そんな反応には慣れていると言わんばかりに、青年も特に何も言わず、マスターと向かいのカウンター席に腰を下ろした。
「いつもの」
 青年が言う。
 マスターは煙草をもみ消し、手を洗って、先ほどまで拭いていたカップに漆黒の液体を注いだ。
 湯気が立つカップを、青年の前に差し出す。
「サンキュ。しかし相変わらず、素っ気ない店だな」
 周りをぐるっと見回し、青年はからかうような響きを含めてそう言った。
 その時、一人佇んでいる女性客に目が留まったが、それも一瞬のこと、珍しいなと思ったくらいですぐに興味は逸れた。
「俺が好きでやっている店だからな」
 マスターは、青年が来てから初めて口を開いた。
 確かに、青年の言ったとおり、店内には装飾物の気配すら無く、さらには、砂糖や、ミルクの類も無い。
 その上、ブレンドもしないと言うのが、店主の方針だった。
 モカやブルーマウンテンが詰まったケースを眺めつつ、青年はあきれ顔で肩をすくめる。
 そんな彼の様子を横目で身ながら、マスターは口を開く。
「この頃、見なかったようだが?」
「ああ、ちょっと、長い航海に出ていたもんでね」
 青年はそう言って、出されたコーヒーを一口啜る。
「船員と言うのも、大変だな」
「そうでもないさ。慣れちまえば別に、と、マスター、少し濃くなってないか?」
 マスターは、その言葉に、そんなはずがあるかとも言いたげに、かすかに首を振る。
「そうか。船の中じゃろくなコーヒーも無かったからな」
 青年は呟くようにそう言って、再びカップに口を付ける。
「出航まであと二週間有るからな。それまで毎日来るぜ?」
「別に、構わんぞ」
「客に言う言葉か?」
 苦笑し、青年は胸一杯に久しぶりの香りを吸い込む。
 そして、つらつらと、航海中の四方山話を語り始める。
 マスターは、時折頷くだけで、青年の話を熱心に聞くようなそぶりは見せない。しかしそれでも、青年は満足げに喋り続けた。
「で、だな。俺の同期の奴が、蛸を食べたことが無いとか言いやがるから――」
「ごちそうさま」
 青年の話の途中で、今まで、存在さえ忘れかけていた女性客が、小さく、しかしはっきりと聞き取れる声で呟いて、席を立った。
 お、と、青年は後ろを振り向く。薄着の、肌が真っ白な女だった。髪の毛を無造作に後ろでまとめて、アクセサリーの類は何も身につけていない。
 女は、出入り口のドアを開けると、雨が振っているにも関わらず、そのまま外へと歩き出していった。
 呆然とその後ろ姿を見送っていた青年は、ドアがゆっくりと閉まった後で、ふと有ることに気が付く。
「お、おいあんた、金」
「いいんだ」
 同じように彼女を見ていたマスターが、腰を浮かした青年を止める。
「いいんだって、おい」
「金なんか、払いたい奴が払えばいい」
 素っ気なく、マスターは言い放つ。青年はいよいよ、呆れた顔をする。
「そんなこと言うなら、俺だって払わないぜ?」
「じゃあ、そうしろ」
「冗談だよ」
 全く変わり者だな、と心の中で呟いて、青年は丸椅子に座り直す。
「それにな、彼女は」
「ん?」
 青年はマスターの顔を見る。しかしマスターは、言いかけたきり、黙ってしまった。
「おい、なんだよ、途中で止めるなんて、ずるいぜ」
「ああ」
「ああじゃなくて。続き、続き」
「聞きたいか?」
 突如、マスターの声の調子が変わった。いつも不機嫌そうではあるのだが、それより遙かにもっと、重いものを思わせる口調だった。
 虚を突かれ、今度は、青年が黙る番だった。
「聞きたいか?」
 マスターは繰り返す。いつも前髪に隠れてよく伺えないマスターの顔が、何故か、緊張しているように思われた。
 青年は静かに頷く。
「そうか」
 新たな煙草を箱から取り出し、マッチでそれに火を付けて、マスターは窓を見た。
「あの日も、こんな雨が降っていたんだよ」
 つられて青年も、窓を見る。土砂降りの雨が窓に叩きつけられ、一瞬、青年は自分がまだ船底の自室にいるのではないかと錯覚した。
「あの娘は、時々、うちに来てたんだ」
 来てた。確かに、マスターは、過去形でそう言った。
「いつも、雨の日に、ずぶ濡れた姿でやってきてな。雨の日に散歩するのが趣味なんだそうだ。初めて来たときも、今日みたいに、ボックス席に黙って座っててな。俺も気にせず黙ってたが、さすがに、声を掛けてみたんだよ。ご注文はってな。そしたら、何でも良いって言うから、モカを出した」
「そしたら?」
「一口飲んで、苦いって言ったよ」
 青年は苦笑した。
「あげく、牛乳か砂糖は無いかって言ったんだ。無いって言ったら、そ、か、ってそのまま黙って飲んでた」
 店内にはBGMは流れていない。ただ雨の降る音だけが二人の後ろに存在していた。
「その後も、雨の日に限って、彼女はここに来た。苦い苦い言いながら、珈琲を飲みにな」
 マスターはそこで、何かを思うように、顔を天井に向ける。
「また、雨が降った。今日も彼女は来るかと思いつつ、待つわけじゃないが、俺は彼女の事を考えていた。だけどその日は、彼女は来なかった。珍しいこともあるな、と、そう思った。その時はな」
「その時は?」
「ああ。次の日俺は、他の常連から、この近くの道路で、交通事故が有ったことを聞いた。ひき逃げだったんだと。犯人は、まだ捕まってない。轢かれたのは若い女だが、即死したそうだ」
「おい、まさか」
「そう、だ。お前さんの想像の通り。話を聞いたときはまさかと思ったが、その後、自分なりに調べて俺は確信した」
 一刹那、間が空く。
「彼女の、ことだったよ」
「じゃ、マスターよ、さっきの」
 マスターは手のひらを青年の前に突き出す。黙って聞け、と言うことらしい。
「彼女が死んだのは、その前の雨の日。俺の店から、帰る途中だったらしい。最後に見た彼女は、当然だが、いつもと少しも変わらなかったよ」
 何も言わず、青年は、マスターの前に空になったカップを差し出した。話を中断し、マスターは、そこにコーヒーを注ぎ込む。
「そして次の、雨の日。そう、今日みたいな日だ。彼女は、来た」
 青年の前にカップを置くと、マスターは話を再開する。
「黙って、そこの席に座ったんだよ。俺は驚いたが、とりあえず、何も聞かずに、モカを出した。何だろうと、そこに座っている限り、客だからな。相変わらず彼女の衣服は濡れていたよ」
 青年は彼女の居た席を振り返る。まだ片づけられていないコーヒーカップが、そこにはあった。
「さすがに気になって、俺はカウンターに居ながら、時折彼女の様子を伺っていたよ。だけど、何も喋らない以外は、いつもの彼女と、変わりなかった。そして、最後にごちそうさまとだけ言って、言ってるのかなアレは。伝えて、と言う感じだな」
 聞きながら、青年は、先ほどの彼女を思い出す。確かに、どこか、耳と言うより心に響く声だった気がする。
「金を払わないのはどうでもいい。それより、ああなっても、また、俺の所に珈琲を飲みに来てくれるのが、嬉しかったな」
「幽霊でも、認める美味さなんだろ」
「世辞はいい」
「世辞じゃないさ」
 最初に一口吸ったきりの煙草が、マスターの手元にある灰皿で殆ど灰になっている。
「それから、雨の日になると、彼女はいつもああして珈琲を飲みに来るんだよ――」
 青年は、ここのマスターがこうも饒舌だったことに軽く驚きつつも、しみじみとした感傷に浸りながら、二杯目のコーヒーを口に含む。
 その時、突然、入り口のドアが勢いよく開いた。
「ごめーんマスター、あたしさっきお金払うの忘れちゃった」
 青年は声の方を振り向いて、思わず口の中のものを吹き出しそうになる。当の彼女が、そこに立っていたのだ。
「ぶっ!? え、あ、お!?」
 慌ててコーヒーを喉に流し込み、マスターと彼女の顔を交互に覗き込む。彼女は不思議そうに、猫のような瞳で青年を眺めている。
 マスターの唇が歪む。
「――と、言うのは、今考えた俺の作り話だ」
 青年は、初めて、マスターの笑顔を見たような気がした。



(終わり)


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