僕の音



 僕は耳がいい。

 僕の耳は色々な音が聞ける。

 例えばそれが、他の人には聞こえないものでも。

 人が死ぬときは、ぽんっと言う間抜けな音がする。

 それを初めて知ったのは叔父が酒の飲み過ぎで死んだときだ。

 僕が真新しいスニーカーを履いて病室に行ったときに、お医者様は険しい顔をしていた。

 そしてふいに、ぽんっと音がした。

 初めて聞いた音だった。

 人が本を読み終えたときや、カラスがゴミ箱をつつこうとするときの音でもない。

 するとお医者様の顔がますます険しくなった。

 そうして僕は、叔父の死を理解した。

 ぽんっと言う明るい音は、その場の厳かな雰囲気に馴染まず、僕はきょとんとした顔をしていた。

 その後、あれは魂が抜ける音だったんだと決めた。

 豪快な叔父だったし、そんな風に魂が抜けてもおかしくはないだろう。

 子供心にそう納得していた。

 しかし、いつもおとなしかった祖母が死んだときも、やはりぽんっと音がした。

 その時の僕は備え付けのパイプ椅子に腰掛けていて、悲しみにじんじんと鳴り響く音を聞きながら、確かにぽんっと軽やかなあの音を聞いたのだ。

 人の魂というものは案外どれも元気が良いものかもしれない。

 でも、あの閉塞感に満ちた空間から祖母の魂は無事に抜け出せたのだろうか。

 それを思うと、あの時窓を開けてあげれば良かったと、僕はことある事に後悔するのだった。

 ある日、ぴうと音がしたかと思うと、ラジオは突然雑音しか喋らないようになった。

 野球中継に熱中していた僕は、誰かがホームランを打ったのかと思ったが、結局それは、ラジオの壊れる音だった。

 ラジオにも魂が有ったのだろうか。

 しかし、年かさの兄がドライバーを片手にラジオを手術すると、瞬く間に大音量の野球中継が始まった。

 それ以来ラジオは壊れていない。

 魂が戻る音は、残念なことに、僕は聞けなかった。

 僕が死ぬときも、ぽんっと言う音が聞こえるのだろうか。

 その時僕は、ぽんっと言う音を聞いてから死ぬのだろうか。死んでから鳴るのだろうか。

 死んでからであるのなら、それは残念な気がした。

 一生に一度しか聞けないものだ、もったいない。

 しかしある時、めりめりと言う音が常に僕の鼓膜に住み着くようになった。

 あれは10歳になった頃だろうか。

 いよいよ夏休みも終わりが近づき、大好きな虫取りを諦めて、瑞々しいスイカを頬張りながら僕は宿題に取り組んでいた。

 めりめりと言う音は、力強さを感じる反面どこかその奥に寂しさを伴っていた。

 当初僕は、ははあ、これはおなかを壊した音だなと恐れおののいていたが、お薬を飲んでもその音は一向に止まなかった。

 第一、おなかを壊せばぺりぺりと聞こえてくるのだ。似ているけど、違う。

 そのめりめりと言う音は気にはなるもののそれほど耳障りでもなく、僕がノイローゼになるようなことは無かったが、それからもひっきりなしにめりめりと聞こえ続けた。

 僕が初めて草野球でホームランを果たしたときも、その音はかきぃんと言う小気味よい音の背景で存在を主張していた。

 乗れるようになった自転車を懸命にこいで、隣町から夕焼けを見たときも、やはりめりめりと鳴っていた。

 尤も、その時は夕焼けの奏でる重低音の方が、よほど幼心に恐ろしくまた素晴らしいものと思えていたが。

 ところが。

 ある日気が付いてみると、めりめりと言う音は小さくなっていった。

 いつも聞いていた音だから、それに気が付くまでは時間が掛かった。

 ああ、小さくなっていると僕が確信するころには、いよいよ耳をすまさないと聞こえないほどめりめりはおぼろげになっていた。

 それと同時に、僕の耳は悪くなっていった。

 人の話は聞けるのに、その後ろにある心が伝える鮮やかな音が、聞こえなくなっていた。

 もちろん、夕焼けの音も、おなかを壊す音も、みんな聞こえなくなっていた。

 めりめりと言う音は、やがて、静かに消えた。

 僕の世界は圧倒的な静寂に包まれた。

 それは悲しいことだったけれど、それよりも数学の公式が覚えられないことが問題だ。

 中学生にもなると、家の中が狭く感じる。

 あんなにだだっ広くてすぅすぅと幽かな音色を聞かせてくれた奥座敷も、今の僕にはただの六畳間にしか見えない。

 高い高いところに有ったはずの神棚に頭をぶつけたとき、僕はようやく気が付いた。

 ああ、そうか。

 僕はもう、子供ではないんだ。





(終)


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