愛の浪漫劇場『ぷちしおり その1』

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 土曜日の午後、学校から帰る途中、栞とばったり顔を合わせた俺は、会話の流れでそのまま水瀬家に連れてくることになってしまった。
「ただいま」
「お邪魔します」
 いつもなら三和土で靴を脱いでいる間に、秋子さんが出迎えに来てくれるのに、今日はそれがない。

 栞と一緒に居間に入って見てみると、テーブルの上に一枚の紙切れが置いてあった。達筆な文字で『買い物に出掛けてきます  秋子』と書かれてある。
「秋子さん、居ないみたいだな」
 俺のその呟きに、物珍しそうにきょろきょろと居間を見回していた栞が、はっと振り向いた。
「…祐一さん、白々しいです」
「は?」
 栞はフッと大人びた微笑を浮かべて、
「本当は、秋子叔母様が留守だってこと、最初から分かっていたんでしょう?」
「なんだ、それは」
「いいんです、祐一さんも男性ですから。私を連れ込んで、誰も居ない間にあーんなことやこーんなことや、あまつさえ…ふにゃあ」
 勘違い発言をし始めた栞を、ほっぺたを引っ張って黙らせる。
「寝言は寝てから言え、栞」
 お餅のようなほっぺたを、ぐにぐにと引っ張る。
「えぅ〜、痛いでふ〜」
 ふわふわのほっぺたは手触りが気持ちよくて、手放すのは名残惜しかったが、栞が涙目になっていたのでやめる。

「むー、ほっぺたが伸びちゃったらどうするんですか」
 栞は赤くなったほっぺたをふにふに揉みほぐしながら、恨みがましい上目遣いで俺を見据えた。
「そのときは、俺が責任を取るよ」
「えっ」
 栞はきょとんと瞳を瞬かせて、次いでぽっと目元を朱に染め、
「そ、それって、ひょっとして」
 期待に満ちた瞳を向けながら身を乗り出す栞。
「ああ。何処が伸びたか分からないように、体中を満遍なく伸ばし…あいて」
 言葉の途中で、ほっぺたを膨らませた栞にグーで叩かれた。

 ・
 ・

「祐一さん、嫌いです」
 栞はぷんすかぷんにふてくされたまま、壁の方を向いて正座をしている。
「すまん、栞。俺が悪かった」
 どうやらフォローのつもりで言った『ちょっとぐらいほっぺたが伸びたって、栞はもともと丸顔なんだから目立たないヨ』という軽い一言が、さらに栞さん(敬称)を怒らせてしまったらしい。

「ごめんな、頼むから許してくれよ」
 髪を綺麗に切り揃えてある後ろ頭に向かって、何度も謝る。
「むー」
 ちょこんと正座をしたまま、振り返りもしない栞。白靴下に包まれた小さな足とか、無防備な背中とか、悪戯し放題な光景だが、手を出したら絶交されそうなので耐える。
「…祐一さん、本当に反省してくれていますか」
「してます」
「…じゃあ、駅前のアイスクリーム専門店でバニラアイスを買ってきて下さい。それで、許してあげます」
「……」
 毎度お馴染みの要求に、ちょっと呆れる。どうして俺の周囲には、イチゴサンデーやらたい焼きやら肉まんやら牛丼やら、食べ物に釣られる子が多いのだろう。
「よし、分かった。駅前だな」
「買ってきてくれるんですか?」
 喜色満面の笑顔で振り向き、念を押すように訊ねる栞。
「ああ。ひとっ走り行ってくるから、栞は待っててくれ」
「はいっ」
 栞はにっこり微笑んで、可愛らしくうなずいた。この笑顔一つで、駅前までの往復走行ぶんぐらい楽に元が取れるように思えるから、我がことながら単純だ。
「じゃあ、行ってくる。秋子さんが帰ってきたら、適当に説明しておいてくれ」
「はい、いってらっしゃい、祐一さん」

 ・
 ・

「祐一さんがお出掛けしてしまって、退屈ですね」
 とてとて。
「この書き置きの字、とっても綺麗です。あ、裏に何か書いてありますね…『追伸、冷蔵庫にあるゼリーは、おやつです。お好きなだけどうぞ』…そう言えば、ちょっとお腹が空いてきましたね…うう、でも、お留守番をしている身で、冷蔵庫を勝手に開けるのは…」
 ごそごそ。
「えぅー、意志薄弱です、私…でも、こんなにたくさんあるんですから、一口ぐらいなら…」
 ぱく。

 ・
 ・

 裏道を駆け抜け、壁を飛び越え、余所の庭を突っ切って、記録的な早さで駅に行って帰ってきた。
「ただいまー」
 三和土を見てみると、靴の数は変わってない。秋子さんも名雪も、まだ帰ってきていないみたいだ。
「栞、アイス買ってきたぞ…あれ?」
 アイスの箱を見せながら、居間に入ってみると、
「…えぅ〜」
 ぶかぶかの制服を着込んだ、幼稚園児ぐらいの女の子が、ちょこんとうずくまっていた。

 ショートボブの女の子は、俺の顔を見ると、涙目になってよたよたと近付いてきた。
「え、えぅぅ…祐一しゃ〜ん」
 俺の脚にすがり付いて、ふうふうと肩で息をしている。
「……」
 しばらく呆然となっていた俺は、しゃがみ込んでその子に目線を合わせて、
「君、どこから入ってきたんだい? 秋子さんの、知り合いかな」
「わ、わたちでしゅ…」
 ふにゃふにゃと小さな腕を振り、舌足らずな言葉で懸命に訴える女の子。
「わたちさん?」
「違いまちゅ…わたち、栞でしゅ」
「……」
 まあ、薄々分かってはいたのだが、現実を直視したくないっつーか、信じてもいない奇跡にすがってみたかったっつーか。

 取り敢えず、栞の頭を撫でる。
「栞、ちょっと見ない間に、ずいぶん小さくなったなあ。『男児、三日会わざれば刮目して見よ』という格言然りだ」
 栞は俺の言葉にむきーっとなると、もがもがと腕を振りつつ、ぺちぺち俺の頭を叩いた。
「わたち、女の子でちっ! しょんなこと言う人、嫌いでちっ」
「冗談だ」
 ただでさえか弱かった栞の腕が、それこそ触れれば折れそうな細さになっているから、痛みは全くない。むしろ、可愛らしさで胸がどきどきするぐらいだ。

「栞、ちょっと待ってろ」
 栞を置いて台所に行き、流しで水を汲む。手に持ったままその存在を忘れていたアイスのことを思い出し、冷凍庫に放り込んでから、居間にとって返した。
「ほら、先ずは水を飲んで落ち着け」
「はい」
 受け取ったコップを、小さな手で一生懸命に支えながら、こくこくと水を飲み干す栞。
「ん、ん、ん…ぷう」
「落ち着けたか」
「はい」
 栞は大きく息を吐いて、こっくりうなずいた。

「さてと。どういう経緯で、そんな有り様になったんだ」
 俺がそう訊ねると、栞はギクッと肩を強張らせて、言い辛そうに顔を伏せてしまった。
「え、えぅぅ〜」
 栞は人差し指を口にくわえて、もじもじ躰を揺すっている。…なんか、子どもを苛めているよーな気になってきたぞ。
「え、ええと…ほら、怒らないから、な?」
 必死で作り笑いを浮かべて、栞に話し掛ける。
「ん、んっ…」
 栞は上目遣いに俺の表情を窺いながら、怖ず怖ずと話し出した。
「…わたち、祐一しゃんが出掛けてから、その…書き置きを見たんでち」
「これか」
 紙の裏に、秋子さんの字で『追伸、冷蔵庫にあるゼリーは、おやつです。お好きなだけどうぞ』と書いてある。
「それで、その…わたち、お腹が空いていて…」
 顔を伏せて、ごにょごにょと言葉を濁らせる栞。どうやら、勝手に食べたらしいな、と見当がついた。

 ふと見ると、テーブルの端に、かなりでかいタッパーが置かれているのが眼に入った。
「これだな、そのゼリーって…げっ!」
 タッパーの中を覗き込み、思わず呻く。中には、オレンジ色のゼリーがぎっしりと詰められていた。
「これは、まさか…」
 恐る恐る鼻を近付けて、匂いを嗅いでみる。見た目から連想される、柑橘系の匂いはしなかった…って言うか、栞の有り様を見れば、このゼリーの正体は“アレ”しかない。

 俺が絶望的な気分に浸ったまま振り向くと、栞はふるふると躰を震わせていた。
「ごめんなしゃい、祐一しゃん…わたち、一口だけ食べてみたんでち…そうしたら、急に躰が熱くなって、頭がくらくらして、眼が回って…気が付いたら、こ、こんなに小さく…えぅ〜」
 感極まって、しくしくと泣き出す栞。
「ああ、泣くな、栞」
 慌てて栞の躰を抱きかかえて、落ち着くように背中をぽんぽんと叩く。
「くしゅ、くしゅ…」
「う」
 だぼだぼの制服を中途半端に着込んだまま、えぐえぐと涙目になっている栞は、なんと言うか、その…破滅的に可愛い。

 すんすんと鼻を鳴らしている栞の頬に手を添え、
「…ん」
 涙を舐め取るように、唇を当てた。
「あっ…」
 瞳を丸くした栞を、そっと抱き寄せる。弱々しくわなないている背中を、優しく撫でて、
「怒ってないから、怖がらなくていい」
 安心させるように、耳元で囁いた。
「…うっ…祐一、しゃん…」
 栞の背中の震えが、少しずつ収まっていく。

「…わたち、ひょっとちて、ずっとこのままなんでちょうか…」
「うーん」
 こればかりは、俺が何を言っても気休めにしかならないだろう。
「大丈夫だ、栞」
 だが、それでもなんとか元気付けてやりたくて、栞の手を握る。
「あ…祐一しゃん」
 栞の目元が、ぽっと朱に染まる。
「ほら、栞は小さいから、もともと高校生には見えない…って言うか、キッパリ中学生ぐらいにしか見えなかったんだし、それが小学生以下までなったって、どうってことない…あいて」
 栞の紅葉のような手で、ペチンと平手打ちされた。
「そんなこという人、嫌いでちっ!」
「いや、だけど実際問題、学校に行っても、ひょっとしたら誰も気が付かない…あいて、いてっ」
「うー、祐一しゃん、嫌いでちっ、嫌いでちっ!」
 ぺちん、ぺちん。
「すまん、俺が悪かった」
「むーっ」
 ふかーっと威嚇するようにのどを鳴らし、ほっぺたを膨らませる栞。考えていたのとは違うけど、元気を取り戻したから良しとしよう。

 むくれた栞は俺の腕から離れると、よたよたと座り込んだ。
「どうした」
 栞は気怠そうに大きく溜め息を吐いて、
「はぅ…疲れまちた」
「そうか」
 ソファに置かれていた、名雪愛用の猫クッションを取り上げ、床に転がす。
「ほら、休んでいていいぞ」
「はい」
 ぽてん、とクッションに上半身を埋めるようにして寝っ転がる栞。
「ほう」
 栞はゆったりと溜め息を吐くと、ころんと躰を転がした。
「……」
 サイズの全然合っていない制服が、えらいことになっている。パンツは脱ぎ掛けになっていてお尻が見えているし、ブラジャーもずり落ちて、へその辺りに引っ掛かっているだけだ。
「…むう」
 真珠色の透き通る柔肌に包まれたあどけない肢体に、何故かどきどきしてきた。…いかん。

 あんまりじろじろ眺めていると危険な気持ちになりそうだから、他の話題を出して気を逸らすことにしよう。
「なあ、栞」
「はい」
「秋子さんが帰ってくるまで打つ手はないけど、一応、栞の家に連絡をしておいた方がいいんじゃないか」
「それもそうでちゅね」
 こくんと頷いた栞は、よたよたと躰を起こした。
「えぅ…服が」
 剥き出しになっていた上半身を恥ずかしげに腕で隠し、ひざまでずり落ちたパンツを引っ張り上げる栞。
 恥じ入るように顔を赤くした栞は、上目遣いに俺を見つめて、
「祐一しゃん…見まちたか」
「…えーと…うん」
 嘘は言いたくないから、正直にうなずく。
「…ぅ〜」
 栞が恥ずかしそうに躰を揺すった拍子に、サイズの合っていなかった服が下着ごと床に落ちた。
「きゃあっ」
「うお」
 栞の生まれたままの姿が、網膜に焼き付けられる。くびれのない柔らかそうな腰、色が付いていない乳首、そして、陰りのないふっくら膨らんだ下腹部…。
「えぅ〜」
 栞がしゃがみ込んで、泣き声を上げた。
「はっ」
 我に返り、あたふたと慌てる。

「ええと…ちょっと待ってろ、栞」
「は、はい」
 洗面所に駆け込み、バスタオルを取り出して、居間に戻る。
「ほら、これにくるまっていろ」
 赤ん坊を抱っこする要領で栞を抱き上げ、バスタオルで躰を包む。
「きゃ…く、くすぐったいでち」
「じっとしてろ」
「あっ…あん、んっ、はぁん」
 顔を真っ赤にして、キュッと唇を噛み締める栞。

「よし、こんなもんだな」
 栞が身動き出来る程度に、バスタオルを巻き付けた。ぶかぶかで用を為さない服を着ているよりかは、幾分マシだろう。
「えぅ…祐一しゃん、えっちでち」
 ほっぺたを赤らめたままの栞が、ぼそっと呟いた。
「え」
「…おっぱいとか、お尻とか、いっぱい触りまちた」
「いや、その、偶然っていうか、不可抗力っていうか、役得っていうか…あああ」
 栞を抱き上げたときの手触りが、ぷにぷに柔らかくて、すべすべなめらかで、あんまり気持ちよかったから、ついつい手が伸びてしまって…ううっ。
「ごめんなさい」
「むー」

「……」
 赤くなった顔を、お互い見合わせる。
「え、ええと…何をしようとしていたんだっけ」
「…私の家に、連絡を入れようと話しをしていまちた」
「ああ、そうだったな」
 立ち上がって、電話のところまで行く。
「……。俺が電話していいのか? 怪しまれるだろ、普通は」
「そうかもしれまちぇんね」
「栞が電話してくれ」
 栞は少し考え込んでから、ふるふると首を振って、
「わたち、今は声も変わってましゅから」
「あ、そうか」
 確かに、舌足らずなうえに声もころころ可愛くなっているから、栞だと信じてもらえるかどうか分からないな。

 でも、俺が栞の家に電話をするとして、どう説明すればいいんだ。
 『栞さんはここに無事にいますから、心配しないでください。ちょっと小さくなってますけど。いえ、それは元からでしたね、ははは』とか。
「祐一しゃん、ひどいこと考えていまちぇんか」
 ギク。
「まさか、考えてないぞ。栞の気のせいだ」
 本当は、素晴らしい勘の冴えだが、誉めてやるわけにはいかん。
「むー」

 栞はふと思い出したように、顔を上げた。
「お父しゃんもお母しゃんもまだお仕事から帰っていないはずでしゅから、留守番電話か、お姉ちゃんに伝えればいいと思いましゅよ」
「そうか、香里が居るんだったら、楽だな…いや、待てよ」
 ここに来て、新たな問題が浮かび上がってきた。
「香里が相手なら、なおさら今の状況を説明しないわけにはいかないよな」
「そうでちね」
 下手に誤魔化そうとすれば、聡明な香里のことだから、まず間違いなく不自然さに気付くだろう。香里は栞に対して過保護だし。
「だけど、栞が小さくなったって言って、信じてくれるかな」
「無理だと思いましゅ」
 あっさり答える栞。
「そうだよなあ」
 あいつは、この類のことに免疫というか、馴れが少ないからな。俺は生き霊とか化け狐とか超常能力とかに付き合いがあるから平気だけど、香里は常識的感覚の持ち主だし、神経も細いし。
「上手く誤魔化しゅしかありましぇん」
「簡単に言うなよ」

 結局、行き当たりばったりで押し通すことになってしまった。やけっぱちな気分で受話器を取り上げ、栞の家の電話番号を押す。
 留守番電話だったら面倒がなくていいなあ、と儚い期待を寄せていると、数回のコール音の後、
『はい、美坂です』
 香里の肉声で、応答があった。…なんてこったい。

 暗澹たる気持ちで、一応の礼節を通す。
「相沢と申しますが、美坂香里さんはご在宅でしょうか」
『あら、相沢君? なによ、その下手な売り込みみたいな自己紹介は』
「気にするな」
『いいけど。それより、何の用? あたし、ちょっと急いでいるんだけど』
「栞のことか」
 受話器の向こうから、香里の驚いた気配が伝わってきた。
『えっ、どうして分かったの? そうなのよ、あの子、まだ帰ってきてないの…心配だわ』

 さてと、これからどうしようか。簡潔に用件だけ伝えて、反論をさせないのがいいかな。
「香里、よく聞け」
『なによ』
「栞は今、うちで預かっている」
『……』
「元気だから、心配しなくていい。間違っても、警察に通報したりはしないように」
『……』
 ガチャッ…ツー、ツー。
「いつ帰せるか分からないけど…あれ」
「どうしたんでしゅか」
「切れた」
 栞に返事をしながら、受話器を置く。

 あれこれ説明させられなくてよかった、と思っていると、
「祐一しゃん、地響きが聞こえましゅ」
「ん? …本当だ」
 どどどどどどどど、と猛牛か象でも走っているかのよーな、重々しい地響きが近付いてくる。
「この辺りに、動物園なんてあったか」
「ありましぇん」
 栞がふるふるとかぶりを振ったのと同時に、地響きが最高潮に達し、
「なんか、嫌な予感が…」
 ズドゴォッ! 轟音と共に、居間の壁が外側からぶち破られた。
「きゃっ」
「危ないっ」
 吹き飛ばされた壁の欠片と、その衝撃で舞い上がった粉塵から護るように、栞の躰を抱き締める。

「なんだ、なんだ」
「えぅ〜」
 俺と栞が慌てていると、壁に空けられた穴をまたぎ、降り積もる欠片を踏みしめ、影が一つ歩み出てきた。
「…相沢くん、栞は何処?」
「その声…香里か」
 栞を抱っこしたまま、影に向かって呼び掛ける。
「ええ」
 舞い上がっていた粉塵が収まり、威風堂々と腕組みをした香里が現れた。
「相沢くん、身代金目的の誘拐の標的に栞を選ぶなんて、随分といい度胸ね」
「……」
 なんだか、思いっ切り勘違いをなさっておいでですよ。

 ズゴゴゴゴ、と怒気と殺気を隠そうともせず、雄々しく兀立(こつりつ)した香里は、澄み切った鋭い眼光で周囲を睥睨している。
「…相沢くん」
「はい」
「あたしはあなたが、まさか人さらいをするような浅はかな人間だとは思ってもみなかったわ」
 ギロリ、と射竦めるように俺を見据え、低い声で呟く香里。
「ああ、そのことだが香里。君はたぶん誤解している…と言うか、間違いなく、確実に、きっと、必ず勘違いをしている」
「人非人の言い分なんて、聞く気はないわ。栞を返しなさい」
 気高く言い切る香里は、崇高と称せられるほど美しかった。…っていうか、人の話しを聞いてくれ。
「相沢くん、お願い。大人しく栞を返して…あたしに、友人を殺させないで」
 殺す気ですか。
「…でも、もし栞が、もうこの世にいないのなら」
 ズォオッ、と怒気を五割り増しぐらいに昂ぶらせた香里は、キッと俺を見据えて、
「…今日この日、この場所が、あなたの命日、そして死に場所になると知りなさい」
 うわーい、殺(や)る気満々だヨ。

 取り敢えず死にたくはないけど、果たして香里に今のこの状況を説明して、納得して貰えるかどうか。
「香里」
「なによ」
「先ず俺は、栞を誘拐も拉致もしていない」
「嘘は休み休み言いなさい」
「……」
 ダメだこりゃ。次、行ってみよう。
「ふう」
 やっぱり、きちんと説明するしかないか。
「香里、栞は無事だ…と言い切るのは微妙だが、取り敢えず元気だし、怪我や病気もしていない」
 俺がそう言うと、香里の表情から少し険が取れた。
「そう…よかったわ。じゃあ、つれてきて」
「え」
「……」
 腕の中の栞が、もじもじと動いた。
「どうしたのよ。二階にいるの?」
「いや」
 目の前にいる、と言って、信じてもらえるとは思えん。

 香里は、俺がいま腕に抱きかかえているタオルの固まりが栞だとは、思ってもいないようだ。当たり前だけど。
「よし、分かった。香里、落ち着いてくれよ」
「? ええ」
 香里を刺激しないように、一歩一歩近付く。
「どうしてこっちに来るのよ」
 警戒するように、腰を落として身構える香里。
「落ち着けって言っただろ」
 だが、これ以上近付くと危なそうだ。俺だけならともかく、栞を危険に曝すわけにはいかん。
「しょうがないな」
 抱き上げたままだった栞を、そっと床に降ろした。
「何の真似よ、相沢くん」
「いいから…ほら、栞」
 俺がそう言って促すと、栞はもそもそとタオルの隙間から顔を出した。
「…お姉ちゃん」
「……」
 香里の瞳がカッと見開かれ、硬直する。
「香里、よく聞け。これは夢じゃなく、現実なんだ。気をしっかり保って…」
「……はふん」
 香里は小さく溜め息を吐くと、そのままばったりと前のめりに倒れた。
「ああっ、やっぱり」
「お姉ちゃんっ」
 本当に神経が細いな、まったく。もう少し図太くならないと、生きていけないぞ。

 ・
 ・

 ぶっ倒れた香里をソファに寝かして、濡れタオルを額に載せて介抱していると、
「ん、ううん…んふ」
 鼻に抜けるような溜め息を吐いて、香里が瞳を開いた。
「あ…え? 相沢くん?」
「おう」
 香里はぼんやりと虚空を見上げてから、溜め息を吐き、
「はあっ…今、怖い夢を見ていたわ…」
 弱々しい声音で、独り言のように呟いた。
「どんな?」
 俺が訊ねると、香里は自嘲するような微笑を浮かべて、
「笑わないでね。…栞がね、すごく小さくなっちゃうの…ふふっ、馬鹿げているわよね。そんなこと、有り得るはずないのに」
「……」
 なんか、真実を伝えるのが躊躇われる。

「あの、香里」
「なあに、相沢くん」
 悪夢から解放されたような、穏やかな微笑みを浮かべる香里。…ああ、心が痛む。
「それ、夢じゃないんだ。ほら」
「お姉ちゃん、大丈夫でちか?」
 心配げな表情で、香里の顔を覗き込む栞。
「……あふん」
 香里の首が、ガクッと横を向いた。
「ああっ」

 ・
 ・

 眼が覚めて、幼児化した栞を直視してまた気絶、というコントを更に二回繰り返してから、香里はようやく落ち着いた。
「つまり、栞は秋子さんのゼリーを食べて、こうなったのね」
 濡れタオルで額を押さえながら、確かめるように呟く香里。
「ああ。まあ、正確なことは俺にも分からんが、きっかけは間違いなさそうだ」
 香里は弱々しくかぶりを振ってから、俺の腕の中で丸くなっている栞(気に入ったらしい)を見つめ、また眼を逸らした。
「悪夢ね…いえ、悪夢なら、まだ救いがあるわよね。だって、眼を覚ませばいいんだもの。…逃げ場のない現実は、いつでも過酷だわ」
 香里は自嘲気味な微笑みを浮かべ、またかぶりを振った。
「…だいたい、おかしいわよ。若返るにしたって内臓や筋肉はともかく、一度成長した骨格や神経細胞が収縮するわけないじゃない…」
「香里」
 沈鬱な表情でぶつぶつぼやいている香里に、そっと呼び掛ける。
「自分の知識だけで、物事を説明しきれると思ってはいけない。世界は…いや、宇宙は不思議に満ちているんだぞ」
 これがその証明だ、と、栞を持ち上げてみせる。
「……」
 香里は濡れタオルを目元に添え、三度目のかぶりを振った。

 ・
 ・

 特にすることもなく、退屈でしょうがないから、嫌がる香里にセンスオブワンダーについて訥々と語っていると、
「ただいま帰りました」
 聞き慣れた声がして、秋子さんが帰ってきた。
「祐一さん、お留守番ご苦労様でした…あら、お客様?」
 居間に入ってきた秋子さんは、ソファで寝転んでいる香里を見て、にっこり微笑んだ。
「お邪魔しています、秋子さん。ご無沙汰していました」
「いらっしゃい、香里さん」
 俺の腕の中でごろごろと丸くなっていた栞も、顔を上げて、ぺこんとお辞儀をした。
「お邪魔していましゅ、秋子叔母しゃま」
 香里だけならともかく、小さくなっている栞を見て、さすがの秋子さんも、きょとんと瞳を瞬かせる。
「まあ…栞ちゃん、少し見ないうちに、随分と可愛らしくなりましたね」
 頬に手を添え、穏やかに微笑みながら呟く秋子さん。
「見ろ香里、これが大人の女性の反応だ」
「あたし、大人になるのは一生無理な気がするわ…っていうか、嘘よ、それは」

 ちょうどその時、ドアの開く音がして、
「ただいま〜」
 呑気な声と共に、部活帰りの名雪が帰ってきた。
「あら名雪、お帰りなさい」
「うん、ただいまだよ。祐一も、ただいま…あれ、どうして香里が居るの?」
「ちょっとね…お邪魔しているわ」
 曖昧に言葉を濁して微笑む香里。
「お久しぶりでち、名雪しゃん」
 タオルの隙間から顔を出した栞を見て、
「わ、栞ちゃん、可愛い〜。うん、久しぶりだね」
 可愛いものを見た女の子特有の、柔らかな笑顔を浮かべる名雪。
「ほら、な? これが一般的な反応なんだ、香里」
「嘘よっ、絶対! あたし、信じないわっ!」
「だから、さっきも言っただろ。自分の知識範囲が全てだと思っちゃ駄目なんだ。ほれ」
 香里の顔の前に、栞を持ち上げて見せる。
「いや、いやぁぁっ! あたしを惑わさないでぇぇーっ!」
 悲鳴を上げ、髪を振り乱して悶絶する香里。
 その間に、名雪は部屋に着替えに戻り、秋子さんは買い物袋を持って台所に消えた。

 ・
 ・

 一旦部屋に戻った名雪が、部屋着に着替えてまた居間に降りてきたころ、ようやく香里も大人しくなっていた。
「…これは夢よ…本当のあたしは、あったかいお布団の中で、朝の目覚めを待ちながら微睡んでいるのよ…」
 大人しくなったんじゃなくて、現実逃避しているだけのよーな気がする。
「香里、目を背けても真実は変わらないんだ。ほれ」
 また栞を持ち上げて、香里の目の前に持っていく。香里は虚ろな瞳で栞を見つめて、
「…ふふふ、何も変わっていないわ…栞は、前から小さかったもの」
 危うさ満点の笑顔で、ぼそぼそ囁く香里。
「ひどいでち、お姉ちゃん」

「お待たせしました」
 買い物を整理して、ついでに香里が開けた壁の大穴の修復を終えた秋子さんが、おっとり微笑みながら、俺の目の前に腰掛けた。
 俺が見ていない間に壁は染み一つなく修復されて、瓦礫も粉塵も綺麗さっぱり消え去っていたが、深く考えないことにしよう。

 秋子さんは小さくなった栞の腕を撫でさすったり、瞳や口腔内を覗き込んだりして診察してから、
「栞ちゃん、このゼリー以外で二十四時間以内に食べた料理を教えて下さい」
「んっ…ええっと、昨日のお昼ご飯は…」
 考え考えしながら、献立を挙げていく栞。
「……」
 秋子さんは注意深く聞きながら、真面目な表情で何か考えている。
「お昼ご飯のデザートに、バニラアイスを食べまちた…それで、おちまいでち」
「そうですか」
 栞の話しを聞き終えた秋子さんは、柔らかく微笑んで栞の頭を撫でた。
「安心して下さい、栞ちゃん。どうやら一過性のもののようですし、体内に吸収されれば、自然と元の躰に戻れますよ」
「本当でちかっ」
「ええ」
 母性的な微笑みを浮かべ、栞を安心させる秋子さん。
「わーい」
「よかったなあ、栞。元に戻っても、大して変わらんと思うが」
「そんなこと言う人、嫌いでち」

 秋子さんは、食べ合わせが悪くてこうなったんですよと説明した。
「あのゼリーが原因で小さくなったわけじゃないんですか」
「違いますよ。まさか、そんなことがあるわけないじゃありませんか」
「……」
 秋子さん愛用の若返りゼリーなのかもしれないと思っていたんだけどな。アレを年中食べて、若々しさを保っているのではなかろーか、とか…むしろ、その可能性のほうが高い。
「…祐一さん? 何か、おっしゃりたいことでもあるんですか」
 おっとりと微笑む秋子さんの瞳の奥が、キラリと光った。
「いえ、なにもありません」

「…元に戻れるんだったら、わたしも小さくなって祐一に抱っこしてもらおうかな」
 俺の腕に抱っこされている栞を羨ましそうに見つめていた名雪が、なんだか物騒なことを呟いていた。
「やめれ」
「うー」
「あら、抱いて下さらないんですか…残念です」
 ほほに手を添えた秋子さんが、心底残念そうに呟いた。
「お願いですから、やめて下さい」

「秋子叔母しゃま、どれくらいの時間で元の大きさに戻れるんでちか?」
 秋子さんはのほほんと呑気な表情で、
「そうですね…十年ほどでしょうか」
 十年!?
「そ、そんなにかかるんでちかっ?」
「それ、元に戻るんじゃなくて、普通に成長しているだけなんじゃ…」
「冗談です」
 危うく栞を抱っこしたまま突っ伏して、うつ伏せに倒れ込むところだった。
「秋子さん、こんな時に冗談はやめて下さい」
「あらあら、すみません。遅くても明日の夕方には、元に戻っているはずですよ」
「そうでちか」
 ほっとしたように肩を落とす栞。

「…でも、やっぱり今日は家に帰るのは無理でしゅね」
「そうだなあ」
 栞の親父さんとお袋さんがどれくらい神経が太いのか分からんが、香里の例から見て、今の栞を見せてもろくな結果にならないだろう。
「しょうがない。親御さんには、香里から上手く説明して貰おう。おーい、香里」
 ずっと静かだった香里は、床に体育座りをして、ぼんやりした表情でぶつぶつ呟いていた。
「…あたし、かおりっていうの、あなたのおなまえは? …そう、くまちゃんっていうのね…はじめまして、くまちゃん。あたしはみさかかおり、ななさい…よろしくね」
「……」
 少し放ったらかしにしている間に、香里さんの精神状態はえらいことになっていた。

「香里、しっかりしろ」
 ぼんやりしている香里の肩を掴み、軽く揺さ振る。
「…あら、相沢くん」
 ふらりと顔を上げた香里は、俺の顔を見つめて、きょとんとした表情で呟いた。
「おう、俺だ。よかった、眼が覚めたんだな」
「まだ教室にいたの? 次は、音楽室に移動よ。早くしないと、遅刻扱いになるわ」
「……」
 香里ギャグなら笑えるのだが、あいにく、香里さんは大真面目のご様子でした。
「ここは学校じゃないんだが」
 香里は大人びた美貌に、ふっと余裕の笑みを浮かべて、
「言葉通りよ」
「会話が通じてないぞ」
 ダメだこりゃ。

「すまん、俺には無理だ」
「えぅー、お姉ちゃん、しっかりして下しゃい」
「あらあら、仕方がないですね」
 のほほんと落ち着いていた秋子さんが、おっとりと進み出た。
「香里ちゃん、ちょっと失礼しますね」
 秋子さんはそう言うと、香里の胸元に手を差し入れた。
「おおっ」
「祐一しゃんっ」 「祐一っ」
 思わず身を乗り出してしまい、栞と名雪に怒られた。
「…ん」
 秋子さんの手が、香里の服の下でもぞもぞと動いたのと同時に、
「あああああ――――――!!!」
 悲鳴と共に、香里の躰が大きく弓なりに仰け反った。

「あっ、ああ…っ」
 カッと見開かれた香里の瞳に、理性の光が戻る。
「…はあっ、はあっ、はあっ…こ、ここは」
 肩で息をしながら、きょろきょろ周囲を見回す香里。秋子さんは香里の服の下から手を抜き、のほほんと微笑んだ。
「ここは私のうちですよ」
「え? あ、秋子さん…名雪、相沢くんも…あっ、栞」
 栞の姿を見た香里は、ふっと痛ましい表情になって、
「…夢じゃなかったのね…ふう」
 大きく息を吐いて、肩を落とした。

「あの、秋子さん」
 ほほに手を添えて、柔らかく微笑んでいる秋子さんに話し掛ける。
「はい?」
「今、香里に何をしたんですか」
「企業秘密です」
「……」
「うふふ。どうしてもお知りになりたいのでしたら…」
 秋子さんの瞳が、さっきのように、危険な感じにキラリと光る。
「私が手ずからお教えしますから、いつでもお部屋にいらして下さい」
「いえ、けっこうです」
 動物的本能で危機を感じ、必死で辞退した。
「あら、そうですか? 残念です」
 おっとり微笑んで、心底残念そうに眉根を寄せる秋子さん。


                                            《その2に続くんでち》

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 星牙でございます。
マキ「マネージャーの小原マキです」
 今回のお話しは、端的に言えば栞たん。
マキ「たん言うな」
 うぃ。

マキ「何故、選りに選って栞嬢を小さくしたのじゃ」
 余所の方の作品と被ることがなさそうだから…というのもあるけど、有り体に言えば、
マキ「言えば?」
 『ひどいでち』、コレを言って欲しかったから。
マキ「うあ…わらわはもう寝る」
 待って。大丈夫、爛(ただ)れた理由以外にも、真っ当な理由はあるよ。ここにあるよ。

 舌足らずになって一番変化が現れるのはサ行。つまり『ですます調』で話す女性のほうが変化が分かりやすいわけです。
 ※例:あゆ「うぐぅ、ひどいよ祐一くん。ボク、そんなことしないもん」
 このセリフは、幼児化していても変化しません。せいぜい『そんなことちないもん』ぐらい。

 文章にして分かりやすいというのは、大事だからねー。
 条件的には秋子さん、佐祐理さん、天野女史でもいけたけれど、これ以降の展開が困難になることと、且つ描いてる小生が楽しいと来れば、栞たんに決定することもやむなし。以上。
マキ「強引な論法でまとめるな!」

 お読みいただきありがとうございました。ご意見、ご感想はこちら→hosikiba@hotmail.comまでどうぞ。
マキ「それでは、ご機嫌よう」




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