愛の劇場『天使になった女の子』【第二幕:栞】
…まっ暗です。
私、いつの間にこんな暗いところに来てしまったんでしょうか。
ふらふらと脚を進めていくと、周囲が明るくなってきました。
「あ」
見慣れた噴水…お気に入りの公園です。
私、いつの間に外に出ていたんでしょう。
ぼんやりして思考のまとまらない頭を傾げながら、ふらふらと噴水に近付きました。
あの側で、私は祐一さんとお別れしたんです。
祐一さん……。
あっ、噴水の縁に誰かいます。
珍しいですね、と近くまで寄ってみて…
「…祐一さん?」
俯いていますけれど、間違いなく祐一さんです。
私は一瞬、逃げ出したい衝動に駆られました。
…私はもう、祐一さんの前から消えなくちゃいけないのに。
…これ以上祐一さんの側に居たら、お互いに辛くなるだけなのに。
「……」
でも、だめでした。
祐一さんの姿を見かけたら、止まれません。
私は怖ず怖ずと祐一さんに近付き、
「あの…祐一さん、どうしたんですかこんなところで。お腹でも痛いんですか?」
平静を装って、祐一さんに声を掛けました。
「……」
祐一さんは顔も上げてくれません。
「祐一さん? …祐一さんっ」
思い出したくない過去の情景が、脳裏にフラッシュバックしました。
…何度声を掛けても、返ってこない応え。
…私を空気のように扱うお姉ちゃん。
「…………っ」
違う。
あれは悪い夢だったんです。
私とお姉ちゃんが一緒に見ていた、悪い夢だったんです。
私とお姉ちゃんはもう悪夢から覚めて、いつもみたいに仲良くお話だってできるんです。
ついこの間だって、お姉ちゃんと一晩中お喋りして、一緒のお布団で眠ったんですから…。
頭を振って嫌なことを振り払った私は、祐一さんの肩に手を掛けようとして、あることに気が付きました。
「…透けてる…」
もともと肌は青白っぽかったですが、いくらなんでも向こう側を透かして見られるわけがありません。
「…これは、ひょっとして」
私は幽体離脱をしてしまっているのではないでしょうか。
わっ、すごいです、私。これってきっと、自慢できます。
「あっ。はしゃいでいる場合じゃありません」
わくわくして高鳴る胸を押さえながら、頭を働かせます。
今できること、今じゃないと出来ないこと…。
「あっ」
いいことを思い付きましたよ。
私は祐一さんに向き直り、
「…えへん。祐一さん」
「私の描いた絵を見て『前衛主義か?』とか、似顔絵を見て『抽象画だよな』とか、意地悪をいっぱい言ってくれましたね」
「そんなこと言う人には、おしおきですっ」
グーにした手を大きく振りかぶって、祐一さんの頭を目掛けて、
「えいっ」
ぶんっ すかっ 案の定、素通りしました。
私は祐一さんの前に立ち、精一杯胸を張って見下ろしながら、
「いかがですか、祐一さん。これに懲りたら反省して下さいね」
「栞」
「きゃあああーっ!」
突然名前を呼ばれて、びっくりした私は大きく尻もちを付きました。
あっ、スカートが…
「っ!」
慌てて前を隠すと、祐一さんはぼんやりと空を見上げていました。
…何だか失礼なことをされているような気がします。
「……」
祐一さん、私の名前を呼んだだけみたいですね。
「わっ」
祐一さん、ずいぶんやつれてしまっています。目の下に隈まであるし…。
「…ふう」
祐一さんは重い溜め息を吐いて、空を見上げたまま、
「神様、あんたは無慈悲ですね」
「どうして、栞を連れていってしまうんですか」
え、私?
「栞は、いい子なんです」
「しょっちゅうとんでもない量の弁当を持ってきたり、年がら年中アイス食ってばかりいますけれど、いい子なんです」
…あの、祐一さん。本気で私のこといい子だって思っているんですか。
「栞は美味い弁当を作ってきてくれるんです」
「栞は味のある絵を描いてくれるんです」
「栞は、……っ」
祐一さんが言葉を詰まらせて、俯きました。
「…クッ、…頼む………栞を、連れていかないでくれ…」
ギリ、と祐一さんの握った手が鳴りました。
「栞を…ぐっ…、く……、…うぐっ……、…ちく…しょう……!!」
祐一さんの腕の上に、ぽたぽたと光る雫が垂れています。
「…祐一さんっ」
肩を震わせている祐一さんをせめて抱き締めたくて近付きましたが、腕はすり抜けるばかりです。
「……っ」
私は祐一さんの横に身体を寄せて、指を組んで空を見上げました。
そうして大きな声で、
「ごめんなさいっ! 私、格好つけていました!」
私は人の前では、死ぬことを受け入れた、落ち着いた素振りでいました。
でも、あんなの嘘なんです。
「……私、本当は死にたくありません!」
死ぬことが恐くて仕方がありません。
「生きたいです! 祐一さん、お姉ちゃん、お母さん、お父さん、クラスの友達、…みんなと生きていきたいです!」
私の身勝手な我が侭を受け入れてくれた祐一さん。
子どもの頃からずっと私を支えてくれたお姉ちゃん。
私を生んで、ずっと見守ってくれたお母さん、お父さん。
楽しくて優しい、クラスの友達。
私を愛してくれるみんな。
「大好きな人たちと、ずっとずっとずっと一緒に居たいんです!」
本当の私は、格好をつけてるだけの、みっともない女の子でした。
死んじゃえば楽になれるって、そんなことを考えていました。
後に残された人たちのことを、なんにも考えないで、自分のことばっかり考えていました。
でも、私が死んでしまったら…
祐一さん。お姉ちゃん。お母さん。お父さん。クラスの友達。
私を愛してくれた人たちみんなが、たくさん傷付くんです。
私の命は、私だけの物じゃないんです。
「だから、だからっ…! 私を、生きていかせて下さい!」
『栞ちゃん』
「はっ!? …あ、あゆさん?」
いつの間にか、あゆさんが私のすぐ側に立っていました。
『お久しぶりだよね』
にっこり微笑むあゆさんは、私の記憶にある姿よりも、ずっと大人びて見えました。
「はい。ご無沙汰していました、あゆさん。あの、ええと…、私のことが見えるんですか?」
『うん』
と、あゆさんが真面目な顔になりました。
『ボクは栞ちゃんを探していたんだよ』
「私をですか?」
どんなご用でしょうか。
『うん。…栞ちゃんの魂は消えかけていたみたいで心配だったけれど、大丈夫になったみたいだね』
「?」
『こっちの話。ところで栞ちゃん、祐一君のことを好き?』
「えぅっ!?」
カッと顔に血がのぼりました。
びっくりした私は、手を無意味にばたばたと振り回しながら、
「い、いえ、あの、そんなこと…っ、ゆ、祐一さんは大切な人ですからもちろん嫌いなわけはないですしでもこの感情は感謝と尊敬の気持ちとも思えるし何よりこういう気持ちは今まで体験したことがないので好きだとか恋愛感情だとか明言できるかどうかと突然訊ねられましてもそのー」
あゆさんは柔らかく微笑みながら、
『落ち着いてよ、栞ちゃん。難しく考えないでもいいんだよ』
「えぅー」
顔が熱いです。
『祐一君のことが好きなんだよね?』
「…う………はっ、恥ずかしいです……」
『どうして? 胸を張って言っていいことだよ』
「……」
『ね、栞ちゃん』
「……。はいっ」
そうですよね。好きなんですから、恥ずかしがることじゃありませんよね。
あゆさんは私の答えを聞いてにっこり微笑み、
『うん』
幸せそうにうなずきました。
『栞ちゃん、このあいだ誕生日だったんだよね』
「え? は、はい」
突然の話題の転換に困惑しながらうなずく私。
『じゃあ、ボクから栞ちゃんへ誕生日プレゼントをあげるよ』
と、あゆさんの身体が光り始めました。
「わっ、あゆさん?」
『栞ちゃん』
「は、はい」
手で眼を覆いながら、声だけで答える私。
『……。祐一君と、幸せになってね』
「えっ? あゆさ……きゃっ!」
あまりの眩しさに、私があゆさんから顔を背けた途端、
『じゃあね、バイバイ……』
あゆさんの声が、遠くに行ってしまいました。
…眼を開けると、そこにあゆさんの姿はありません。
「…あゆさん? …あゆさんっ!」
返事はありません。うろうろと動き回って、ふと空を見上げると、
「……え…」
あれは…天使?
目を凝らしてよく見ようとした瞬間、身体が引き戻されるような感覚がありました。
「あっ」
景色が流れ、噴水と祐一さんの姿が遠くなります。
「ゆっ、祐一さん!」
思わず声を上げると、
「………栞?」
はっと顔を上げた祐一さんが、私の方を振り向きました。
私は精一杯の声を張り上げて、
「祐一さん! 私、きっと還りますから! きっと、きっと還りますから! ですから、もう、泣かないで……」
祐一さんに、私の声が…想いが届いたのか分からないまま、また意識が暗くなりかけました。
…駄目です。私はこんな暗いところに居るわけにはいかないんです。
祐一さん、お姉ちゃん、お母さん、お父さん…みんなのところに還らないと。
「…私、死にませんっ!」
…
……
………
「! 先生、患者の脳波が持ち直しました!」
「よしっ。昇圧剤投与、急ぎたまえ!」
「はい!」
「腕の見せ所だ、何としても助けるぞ!」
「はいっ!」
愛の劇場『天使になった女の子』 第二幕 完
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星牙でございます。
マキ「マネージャーの小原マキです」
栞嬢編です。…小生の言いたいことがどれだけ伝わってくれているのか、ものすごく不安だ。
マキ「だから泣き言を言うな」
あゆ嬢が栞嬢に与えたのは奇跡の力などではなく、生きようとする想いそのものなのだと思うですよ。
マキ「待て、それ以上はこれ以降の話に絡む」
むい。お読みいただき、ありがとうございました。まだ数話ありますので、見捨てないでやって下さい。
マキ「それでは」
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