愛の劇場『お茶目な秋子さんR誕生日編 当日その十三』
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普段よりかなり早いけど、今日はものすごく疲れたから、さっさと寝ることにした。重い躰を引きずるよーに階段をのぼり、ようやく部屋の前に着く。
「ふう」
安堵の溜め息を吐きながらドアを開けた。
「……」
ベッドだ。ベッドしかない。部屋一杯の大きさのベッドが、鎮座(と言えるほど可愛い大きさじゃないけど)していた。
落ち着け、俺。
今朝起きたときも、夕方風呂に入る前、下着を取りに戻ってきたときも、この部屋のベッドはシングルの大きさだったはずだ。それが何故か今はキングサイズになっている。
「……」
俺が風呂に入ったりしている間に、成長したのだろーか。だとしたら、明日の朝にはこの部屋の許容量を越えた大きさに…って、そんなワケないだろ。落ち着いてないぞ、俺。
目の前の現実を受け入れられない俺は、ひょっとしたら幻覚かもしれないと思いつつ、無闇にでかいベッドに近付いてみる。
「……」
つま先でベッドの脚を軽く蹴ってみると、ちゃんと感触があった。幻覚じゃないらしい。
それにしても、大きい。俺が大の字になって寝転がったとしても、二回転ぐらいまでは余裕な広さがありそうだ。
「……」
飛び込んで、転がりたい衝動に駆られる。
なんか考えるのが面倒臭くなってきたし、この際、どうしてこんな物がここにあるのかということを考えるのは後回しにすることにした。…どうせ、秋子さんの仕業だろうし。
「…よし」
手の平で布団をぽんぽんと軽く叩き、もう一度感触を確かめてから、
「とりゃっ」
飛び込むように、ベッドに向かって突っ込む。
どふんっ、と少し重い衝撃が返ってきた。その途端、
「わー」
俺の着地した地点から少し離れた敷き布団が、小さく悲鳴を上げた。
「って、おい」
慌てて躰を起こして、掛け布団をめくる。
「……う〜」
ふにゃふにゃと拗ねた顔をあげた名雪と、眼が合う。
「ひどいよ、お父さん…わたし、びっくりしたよ〜」
驚いていたようには見えない名雪が、むーと唇を尖らせながらぼやいた。
「ああ、ごめんな。…いや、そうじゃない。どうして名雪がここにいるんだ」
名雪はぱちくりと瞳をまたたかせて、
「わたしがここにいるのは、わたしがここにいるからだよ」
「そんな哲学的問答はいいから、きちんと理由を言え」
少し睨むように見据えながら言うと、名雪は首を竦めて、
「うー、親子は川の字で寝るものだよ」
「は?」
名雪はじっと俺を見つめて、うずうずと躰を揺すり始めた。
「わたしとお母さんとお父さんの三人で並んで、川の字になって眠るんだよ」
「待て、おい」
「なあに?」
ほえっと小首を傾げる名雪。…突っ込みどころが満載な発言に、いったい何を言ってやればいいのか一瞬戸惑う。
「……」
俺が言葉を失っている間に、名雪はもそもそと布団の中に潜っていく。
「んしょ…えへへ」
顔だけ出して、にっこり微笑む名雪。
「ほら、お父さんも早く入って」
名雪は掛け布団を持ち上げて、無邪気な仕草でぽすぽすと布団を叩いている。
「あ、ああ」
言われるままに布団に入り、名雪の脇に落ち着く。
「ふう」
ゆったりと布団に包まれて、自然に溜め息が漏れた。ああ、くつろげるなあ…って、くつろいでどうするんだ。
すぐ脇でほえっとしている名雪の方を向く。
「名雪、秋子さんはどうした」
「お母さんは、部屋に一旦戻ってから、すぐ来るって」
すぐ来る!? 恐ろしい情報がもたらされた。
「部屋に戻れ、名雪」
「えー」
名雪が眼を真ん丸にして驚く。
「うー、どうして? わたし、一緒に寝たいよー」
「駄目だ」
「うー、うー、うー」
「唸っても駄目」
むーっとほっぺたを膨らませていた名雪が、はっと何か思い付いたように瞳を見開いた。
「あっ、分かった。お父さん、お母さんとうんとえっちしたいから、邪魔なわたしを追い出すんだね」
ガクンと全身から力が抜けた。
「違うっ」
「違わないよ、きっとそうなんだよ。お父さんのえっちっ」
名雪はむーとかうーとか言いながら、ばたばた暴れている。
「きっと、わたしの想像もできないようなスンゴイことを、一晩中する気なんだよー」
ああ、もう何を言えばいいのやら。
名雪はごそごそ躰を動かし、にじり寄ってきた。
「うー、わたし出ていかないからね」
名雪はそう言うと、俺にしがみついた。名雪の柔らかな肢体が押し付けられる。
「こ、こらっ」
「うー」
むしゃぶりついた名雪は、離されまいと腕に力を込めて、ぎゅっとしがみつく。ほにゃっとした柔らかみが更に密着した。
「ああっ…ちょっと、離れろっ」
「いやだよ」
名雪と絡み合ったまま、もがもがと布団の中を転がる。さすがキングサイズ、転がっても落ちたりしない。…って感心している場合か。
「お父さん、子どもじゃないんだから、夜中に騒いだらダメだよ」
「お前が言うなー」
「ふう、はあ、ふう」
くたびれてへろへろになった俺は、名雪をしがみつかせたまま、大きく肩で息をする。
「うんしょ」
名雪が身を乗り出して、俺に覆い被さってきた。
「ねえ、どうしても一緒に寝ちゃダメ?」
覗き込むように顔を寄せて、寂しげに呟く名雪。…うう、その表情は反則だろ。
「…分かったよ。いいよ」
「え、ほんと? わーい」
名雪はにぱーっと微笑むと、俺にすがり付いて、
「…んー」
いきなり唇を押し付けてきた。
「んぐっ」
「…んっ、ぅんっ、…んっ、んちゅ………えへへ」
名雪はついばむようなキスを三回繰り返してから唇を離し、ふにゃっと幸せそうに顔をほころばせた。
「お、おい名雪、今のは…」
「ちゅーだよ」
のほほんと答えて、にっこり微笑む名雪。
「お父さんも、今さらちゅーぐらいであたふたしないでね」
「……」
ああ、名雪が大人になっているー。
「よいしょ」
名雪は寄り添うように、躰を半分重ねてきた。
「えへへ〜」
「うう」
頬ずりをしてくる名雪の、ふっくらとした柔らかみが…あうう。
「うにゅ、うにゅ」
名雪は全く警戒している様子もなく、躰を預けている。
「…なあ、名雪」
「ん〜? なあに、お父さん」
頬ずりをしていた名雪が、無邪気な顔を上げる。
「ええと…名雪は、分かっててやってるのか?」
「なにを?」
「だから、その…俺は名雪の父親じゃないんだぞ」
「知ってるよ。祐一がお父さんなら、わたしびっくりだよ」
のほほんと答える名雪。こいつのことだから、もしそうだったとしても、あんまり驚かないんじゃなかろーか。
「じゃあ、なんでそんなに無防備でいられるんだ」
訊かないといけないとは思っていたけど、なんとなく恐ろしいから先延ばしにしていた疑問を口にする。
「?」
「だから、今ここで俺に襲い掛かられたりしたらどうするんだよって訊いてるんだ」
実際には、俺にはそんな度胸も甲斐性もないけど。
「お父さん、絶対そんなことしないでしょ?」
名雪が、にっこり微笑みながら言った。
「お父さんは意地悪はするけど、誰かをわざと傷付けたり、悲しませたりは絶対にしないもん」
名雪が信頼しきった瞳を真っ直ぐに向けて言った。
…信じられているのは、素直に嬉しい。だけど、
「だからって、甘えるのにも限度があるだろ。名雪は、誰にでもこんなふうにするのか?」
「…え…」
名雪の瞳が、ぱちくりとまたたく。
「……」
自分の言ったことの無神経さに気付いて、背筋が冷たくなった。
名雪はしばらく俺の顔を見つめてから、
「はああああぁぁぁぁぁ〜」
やおら、重々しい溜め息を吐いた。
「……お父さん、分かってないよ」
「何がだ」
今度は俺が訊き返す。
「お父さんのことだから、わたしもお母さんも、自分のことからかってるだけなのかもしれないとか考えてたんでしょ」
「うっ。…ああ」
俺がうなずくと、名雪はまた『はあ』と軽く溜め息を漏らした。
「あのね、わたしもお母さんも、好きでもない男の人にこんなこと出来ないよ」
名雪の言葉を反芻して、意味を考える。
「…え。待ってくれ名雪、それは、その、もしかして」
名雪は瞳を伏せて、外人のよーに肩を『やれやれ』と竦めた。
「ふうっ……お父さんは、ホントに鈍いんだね……」
「しみじみ言うな」
「本当のことだもん(キッパリ)」
うぐぅの音も出ないとはこのことだった。
「やっぱり鈍感だよ鈍重だよ愚鈍だよ唐変木だよ朴念仁だよ不感症だよマグロさんだよ」
悪し様に言い募る名雪。
「…んしょ」
言いたいことを言い終えた名雪は、もそもそと躰を動かして、また俺に寄り添った。
「こんな機会がないと、お父さんはず〜っとわたしとお母さんの気持ちに気付かなかったんだろうね」
膨れっ面をした名雪は、俺のほほを軽くつねって引っ張った。
「んぐ……すまん」
「謝らなくてもいいよ。鈍感なのが、お父さんの可愛いところだもん」
名雪はつねっていたほほを離すと、今度はぐりぐりと円を描くように指を動かし始めた。
「それに、面白いこともあったからね」
拗ねたような表情だった名雪が、ほにゃっといつもの柔らかい笑顔を浮かべる。
「わたしとお母さんにくっつかれて、嬉しさを隠しきれないお父さんの顔は見ていて面白かったよ」
「うぐぅ」
「お風呂場でも、お母さんとわたしにしがみつかれて、うーうー言ってるお父さんはすっごく可愛かったし」
名雪はその光景を思い出しているらしく、可笑しそうにくすくすと笑った。
「やめてくれー」
名雪の言葉責めに悲鳴を上げる俺。
「それに今日は、普段は甘えさせてくれないお父さんが、い〜っぱい甘えさせてくれたし」
名雪はうっとりと瞳を潤ませて、幸せそうに囁いた。
「えへへ、明日の朝が楽しみだよー」
愛の囁き云々の話しだな。
「言っておくけど、約束は約束だよ。今さらなしって言うのはダメからね」
名雪は秋子さん譲りの、圧しの強い微笑みで念を押してきた。
「分かってる」
にこにこ微笑んでいる名雪を見て、新たな疑問が湧き起こる。
「なあ、名雪」
「ん〜?」
「名雪は知ってるだろうけど、俺は、その…秋子さんと」
俺が言葉を選んでいると、
「えっちしてるってこと?」
名雪はほえっといつもの表情で、何でもないことのようにあっさり口にした。
「…有り体に言えばそうだけど、ええと…名雪は気にしないのか」
名雪はうーんと声に出して考え込んで、
「うん、羨ましいかな。わたしはまだそういうことしてもらってないもん」
「ブッ」
「わたしはお風呂場でおっぱいを揉んでもらったぐらいだから、お母さんが羨ましいよ」
少しほっぺたを赤らめながら、のほほんと言葉を続ける名雪。
「待て」
「なあに?」
「そうじゃなくてだな、もう少し色々あるだろ? 俺のことが好きなんだったら、焼き餅とか」
名雪はきょとんとした表情で、瞳をまたたかせた。
「やきもち? …うーん……むー…」
名雪は唸り声をあげて、真剣に考え始めた。
「…うー…ええっと…」
ずいぶん長いこと考え込んでから、
「よく分かんないよ。わたし、お母さんのことも、お父さんのことも好きだから、あんまりそういう気持ちはないみたい」
菩薩のようなことを言い出す名雪。
「今日のお母さんはすごく幸せそうに見えるから、わたしも嬉しいよ」
名雪は何の気負いもなく、いつもののほほんとした表情で言葉を続けた。
「あ、そうだ。焼き餅じゃないけど、不安にはなったかな」
それまでほえほえしていた名雪が、ふと真面目な表情を作って言った。
「ひょっとしたらお父さん…祐一は、お母さんにだけ優しくなって、わたしは放ったらかしにされちゃうのかなぁって思って、それはちょっと怖かったよ」
今も少し不安なのか、名雪の瞳は微かに揺れているように見える。
「さっきだって、お父さんはわたしを追い出そうとしてたし」
「…すまん」
そんなつもりじゃなかったんだ、というのはただの言い訳だから、口にしない。
「謝らなくてもいいよ」
名雪は普段ののんびりとした笑顔を浮かべて、俺の頭を撫でた。
「こうしてちゃんとわたしを居させてくれているし。…わたしは、お父さんが側にいてくれているだけで、幸せだもん」
「…名雪」
…さっき名雪の告白を聞いてから、胸が熱くて苦しい。何か詰まったような気がして、落ち着かない。
「なあ、名雪」
「ん? なあに」
にこにこ微笑みながら俺の頭を撫でていた名雪が、ほえっと顔を向ける。
「明日の朝に、愛を囁くっていう約束だったよな」
「うん。あっ、ダメだよ、取り消さないよ」
警戒した名雪が、ふかーっと柳眉を逆立てる。俺は信頼はされていても、信用はないらしい。
「違う、そうじゃない。ええと…その約束、前倒しにしてもいいか?」
「え? どうして」
「いいから」
「うん、いいよ。でも朝にももう一回言ってね」
名雪はあんまり深く考えずに、のほほんと微笑みながら答えた。
「ああ、分かった」
返事をして、軽く呼吸を整える。
「名雪」
「うん」
「好きだぞ」
言った途端、胸のつかえが取れた。
名雪がぱちくりと瞳を数回またたかせると、やがて目元、ほっぺた、鼻先、耳たぶ、おでこ、首筋の順に赤く火照り始めた。
「えっ、えっ、ええっ?」
名雪は唇を薄く開いて、あたふたと視線を泳がしてうろたえている。
「えっ、えっと、ええっと…あっ…うー…うーうーうーうーうーうーうーうーうーうー」
衝撃のあまりサイレンと化した名雪を、そっと抱き締めた。
「ほら、落ち着け」
引き付けを起こしそうになっている名雪の背中を、あやすように軽く叩く。
「…うにゅー…」
ぶるぶる震えていた名雪の肩の痙攣が、じょじょに収まっていく。
ようやく落ち着いた名雪は、ぼんやりと俺の顔を見つめている。
「ええっと…今のって、本気で言ってくれたんだよね」
「当たり前だ」
俺がぶっきらぼうに言うと、名雪はにこーっと微笑んだ。
「うん、信じるよ」
名雪はしばらく考え込むように黙り込んで、何か決意したように顔を上げた。
「…ねえ、お父さん」
名雪が上目遣いに俺の顔を見ながら、微かに上擦った声で呟いた。
「なんだ」
「ええと…わがまま言ってもいい?」
おねだりするような表情を向けて囁く名雪。
「聞いてから考える」
「うー…いいって言ってよ」
名雪はぷくっとほっぺたを膨らませて、うりゅうりゅと身悶えた。
「うっ…分かった。いいよ」
「わーい」
にぱーっと幸せそうに微笑んだ名雪は、小さく深呼吸をして、
「あのね…………わたしにも、お母さんみたいなことして欲しいな」
ぎょっとして名雪を見ると、名雪は顔を真っ赤にしながら、真っ直ぐに俺を見据えていた。
「名雪、一度しか訊かないぞ。…いいのか、俺で?」
「うん」
名雪は間髪入れずにうなずいた。
「わたしは初めては絶対にお父さんがいいし、途中も最後も、みんな祐一じゃないといやだもん」
瞳に強い意志を込めて答える名雪。
「…分かった」
俺は名雪の背中に回していた腕に力を込めて、名雪を抱き寄せた。
「…あ…お父さん」
名雪の小さな呟きに、俺は苦笑しながら、
「名雪、お父さんはもういいから」
「…うん…祐一」
はにかむように瞳を伏せた名雪に、軽く口付けた。
・
・
「……ふにゃ」
俺に覆い被さった名雪が、顔を濃い薔薇色に染めながら、小さく啼き声を上げた。
「名雪」
全身をぐったりと弛緩させている名雪を抱き締め、髪の毛を撫でる。
「ん…気持ちいい」
ふにゃあと鳴きながら、うっとりと呟く名雪。
汗ばんでしっとりと重くなった名雪の髪の毛を指で梳いていると、名雪がいつの間にか顔を上げて、俺の顔を見つめていた。
「…どうした」
「うん…」
名雪はほにゃっと顔をほころばせて、
「祐一、大好き…えへへ」
言ったと同時に恥ずかしがって、俺の胸にがばっと顔を伏せた。
「…名雪」
顔を伏せた名雪の背中を、優しく撫でる。
ガチャリ。その時、ドアが小さく音を立てて開いた。
「はっ」
ドアを開けて入ってきた秋子さんと、眼が合った。
秋子さんの目線が、俺と抱き合う名雪の裸体の上で止まる。
「……!」
秋子さんの瞳が見開き、唇がわなわなと震えだした。
「あっ、あなた!? 名雪と、何を…」
秋子さんが、顔面を蒼白にしながら呟く。
「…まさか…祐一さん、名雪と…!」
秋子さんは言葉を途切れさせて、俺を真っ直ぐに睨んだ。
「秋子さん、話しを聞いて下さい」
「いいえ、聞きません。聞きたくありませんっ!」
秋子さんの絶叫が、俺の言葉を失わせる。
「…わ、私というものがありながら、娘と関係を結ぶなんて…!」
秋子さんが、胃の中の物を吐き出すような苦しげな声で言葉を紡ぐ。
「…よくも私を、私の気持ちを弄んで下さいましたね……よくも、よくもっ!」
秋子さんの瞳は嫉妬と憎悪でギラギラと輝き、全身からは逆巻く怒濤のような激憤の炎が噴き上がっている。
「あ、秋子さん…」
「黙りなさいっ!」
俺が怖ず怖ずと呼び掛けると、間髪入れずに、秋子さんの怒声が響き渡った。
「馴れ馴れしく名前を呼ばないで下さい! 汚らわしい!」
秋子さんの声が届くたびに、心臓を直接わし掴みにされるような衝撃が走る。
「――この、裏切り者っ!」
「っ!」
秋子さんの悲鳴が、本物の刃のように俺の胸に突き刺さった。
「お母さん、祐一が怯えてるから、それぐらいにしておけば?」
俺の上でのほほんとくつろいでいた名雪が、ほえっとした口調で言った。
「うふふ、そうね」
その途端、秋子さんはほほに手を当てて、いつもの柔らかい微笑みを浮かべた。
「少し言い遅れたけれど、名雪、おめでとう」
秋子さんが母性の溢れる笑顔を浮かべながら言った。
「えへへ…ありがとう、お母さん」
もじもじと照れながら、名雪も微笑み返す。
「………え? あ?」
俺は独り取り残されて、ぽかんとした表情を名雪と秋子さんに向ける。
「あ、あの、秋子さん?」
「あ・き・こ」
にっこり微笑みながら、ダメ出しをする秋子さん。
「秋子、今のは…全部演技だったんですか?」
たった今まで目の前で放たれていた、揺らぎのない殺気を思い出し、身震いしながら訊ねる。
「ええ。大根役者で、見苦しかったでしょう。すみませんでした」
恥ずかしそうにほほを染めながら微笑み、可愛らしくお辞儀する秋子さん。
「…いいえ…」
魂をひしゃげさせるような秋子さんの圧倒的な重圧に、俺は本気で怯えていたし。って言うか、名雪がいなかったら、それこそ尻に帆を掛けて逃げ出していたかもしれない。
アレが本気なのか演技なのかに関わらず、秋子さんは絶対に怒らせないことにしようと心に決めた。
ベッドの側に立っていた秋子さんが、もそもそと肩を揺すりだした。
「あの、祐一さん…」
「はい?」
「ええと、その…」
秋子さんは上目遣いに俺を見つめたまま、もじもじしている。
「…祐一。ベッドに入れさせて下さいって、女の人に言わせるつもり?」
俺の躰から降りていた名雪が、助言してくれた。
「あっ。す、すみませんっ。どうぞ、秋子さ…秋子」
秋子さんはほっとしたように顔をほころばせると、淑やかな仕草で布団に滑り込んできた。
「失礼します」
横になった秋子さんは居住まいを正し、にっこり微笑んだ
「お母さん、ドアの向こうで待っていたの?」
名雪が躰を起こして、俺を挟んで反対側にいる秋子さんに向かって訊ねる。
「待っていたんだけれど、途中で寒くなったから、名雪の部屋にお邪魔していたのよ」
秋子さんがふんわり微笑みながら答えた。
「そうだね。廊下は寒いもんね」
「名雪のベッドを勝手に借りてしまったけれど、ごめんなさいね」
「気にしないでいいよ」
ほのぼのとした会話のやり取りをする名雪と秋子さん。
「ところで祐一さん、つかぬ事をお伺いしますけれど」
秋子さんが身を乗り出して、俺に覆い被さりながら言った。
「は、はい?」
秋子さんの肢体の柔らかな温もりに耐えながら訊き返す。
「私には、愛を囁いて下さらないんですか?」
「え」
秋子さんはぐっと顔を寄せてきた。
「先程、名雪に『好きだ』と告白なさっていたのに、私には何もおっしゃっては下さらないんですか?」
秋子さんの瑠璃色に澄んだ瞳が、俺の顔を映し込んでいる。
「え、ええと、あの」
俺がしどろもどろになっていると、秋子さんはさらに顔を近付けて、鼻先が触れ合うほど寄ってきた。
「うう」
間近で見る秋子さんの顔は、すごい綺麗で…あああ。
「……祐一さん…」
物憂げに囁く秋子さんの顔が、声が、息がっ。
「あぅぅ」
ふと、秋子さんの瞳が滲み、寂しげに揺らいだ。
「……やっぱり祐一さんは、私のことは何とも思っていらっしゃらないんですか…?」
「え」
秋子さんの表情が暗く落ち込む。
これも演技なのだろうか、と一瞬考えたけど、それでもやっぱり秋子さんのこんな顔は見ていたくない。悄然としている秋子さんの肩を掴む。
「…祐一さん?」
顔を曇らせたままの秋子さんが、顔を上げた。
「……ふぅ」
軽く深呼吸をして、成り行きで言っていると思われないように、気持ちを込める。秋子さんの瞳を真っ直ぐに見据えて、
「愛してる、秋子」
言って、秋子さんの唇を吸った。
「…んっ」
不意に唇を塞がれた秋子さんが、瞳を目一杯に見開いている。唇を離すと、秋子さんはぽかんと俺の顔を見つめた。まさか、ここまでされるとは思っていなかったらしい。
「…はっ……あ」
唇に指を添え、きょろきょろと視線を泳がせる秋子さん。
「え、ええと…」
しばらくすると、秋子さんは顔をほころばせかけて、それから急に普段の柔和な表情を浮かべようとして、なんだか複雑な顔付きになって微笑んだ。
「あ、ありがとうございます、祐一さん…」
秋子さんはそれだけ言うと、嬉しさを隠しきれずにほにゃほにゃになっている顔を、可愛らしく伏せた。
「お母さん、照れてる?」
名雪が瞳を輝かせながら身を乗り出し、秋子さんの顔を覗き込む。
「な、名雪っ」
秋子さんが赤くなった目元を精一杯厳しくして、名雪を見据えた。
「わー、お母さんが照れてる、照れてる。ほっぺたが真っ赤だよ」
名雪が可笑しそうにはやし立てる。
「そ、そんなこと…もうっ、名雪。いつからそんな子になったの?」
両ほほに手の平を当てて隠しながら、秋子さんがそう言うと、名雪はうーんと考え込んで、
「祐一と一緒に生活するようになってからだよ」
いきなり俺のせいにされた。
もじもじしていた秋子さんが、ようやく普段のゆったりとした落ち着きを取り戻して、にっこり微笑んだ。
「うふふ…」
秋子さんが微笑みながら俺に寄り添い、俺の胸板を撫で始める。
「……」
秋子さんの瞳がやけに潤んでいて綺麗だなあ、とか考えているうちに、いつの間にか秋子さんは射抜くよーな視線で俺を見据えていた。
「……祐一さん…」
秋子さんが上擦った声で囁いて、間合いを詰めてきた。
「私のこと、愛してるっておっしゃって下さいましたよね?」
「え、ええ」
「…証しを、立てて下さいっ」
言うが早いか、秋子さんはがばっと俺に覆い被さってきた。
「ああっ、ちょっとっ。名雪が見てますよっ」
「大丈夫ですよ。ね、名雪?」
「くー。うん、わたし寝てるよー」
ベッドの端の方から、名雪の声が返ってきた。
「あからさまに寝たふりするなぁーっ!」
「まあまあ、いいじゃありませんか」
覆い被さった秋子さんが、俺の顔を覗き込みながら微笑む。
「よくないですよっ。あっ、だから、そんな…ああ――」
・
・
「…ぐったり…」
口でそう言いながら、胸板に頬ずりをしている秋子さんの髪の毛を撫でる。
「…はふぅ…」
秋子さんはふにゃっと顔をほころばせて、満足げに全身を弛緩させている。
それまでベッドの隅で寝たふりをしていた名雪が、もそもそ近付いてきた。
「ねえ、祐一」
「ん」
気怠い疲労感に包まれたまま、顔を横に向ける。
「さっきお母さんに、愛してるって言ってたよね」
「ああ」
俺がうなずくと、秋子さんがぽっと可愛らしくほほを染めた。
「わたしには、好きってしか言ってくれないの?」
「え」
名雪がずいっと顔を寄せてきて、秋子さんは気を利かして俺の上から降りた。
名雪はうにゅうにゅと躰を動かして、俺の上に覆い被さった。
「わあ、祐一の躰すっごく温かいよ〜。…ねえ、わたしにも愛してるって言ってよ」
「あいしてる〜」
「うー、全然気持ちがこもってないよー」
名雪がむーっとほっぺたを膨らませて、ぺちぺちと俺の頭を叩いた。
「うー、うー、うー」
「言葉にこだわるなよ、名雪」
唸る名雪の頭を軽く撫でる。
「だって、やっぱりちゃんと言葉にして伝えて欲しいよ」
名雪が唇を尖らせて拗ねた。
「軽はずみに口にするのは、安っぽい気がして嫌なんだよ」
名雪はうーんとかむーとか声に出してしばらく考え込んでから、
「分かったよ」
「そうか」
「わたしもお母さんみたいに、言葉の代わりに、態度で示してもらうよ」
そう言って、名雪はうっとりと艶めいた媚笑を浮かべた。
「え。…ちょ、ちょっと待て! 俺はもう無理だ」
俺が逃げ腰になって言うと、秋子さんが顔を出して微笑んだ。
「大丈夫ですよ、祐一さん。そうおっしゃってから8回はいけます」
どこに? とは怖くて訊けない。
「えへへ〜」
もう名雪はうずうずと躰を揺すり始めている。
「うふふ♪」
ああっ、秋子さんまでが三つ編みをほどいて、長丁場の準備をしているっ。
「お母さん、わたしが先でいい?」
名雪が振り向いて秋子さんに訊ねた。
「私は構わないけれど、名雪の方こそ大丈夫なの?」
「うん、平気だよ」
「そう? 無理はしないようにね」
俺の心配もして下さい、秋子さん。
「あ、あの二人とも、俺の話しを…」
秋子さんと名雪が親子揃って俺を見つめて、にこーっと微笑んだ。
「えへへ…今夜は眠らせないよ、祐一♪」
「うふふ…朝まで、離しませんからね♪」
「いえ、だから…ああっ…あ―――――」
《後日 その壱に続きます》
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星牙でございます。
マキ「マネージャーの小原マキです」
ようやっと当日が終わったヨ。
マキ「とても一日とは思えん長さじゃ」
うぃぃ。
振り返ってみると、どえらい長さだけあって、秋子さん&名雪女史との過剰な絡みとか、どんどんえっちぃになってお茶目じゃなくなっていく秋子さんとか、猛獣と化す名雪女史とか、延々と続くお風呂シーン『フォーエバー ウィズ 湯ー』とか、盛り沢山な内容ですな。
マキ「盛りすぎじゃろ」
むぃ。
書いている最中は『名雪女史が目立ちすぎて、秋子さんの影が薄くなってるぅぅっ!?』と青ざめたりしたけど(実話)、いろいろ苦労した甲斐があって、名雪女史の気持ちもきちんと描けたよ。るんらら〜、よかったね〜♪
マキ「まだ終わっておらん」
うぃ。
お読みいただきありがとうございました。
マキ「それでは、ご機嫌よう」
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